「存在の耐えられない軽さ」から「忘れてもしあわせ」まで 「映画祭と私」 中村礼子 淀川長治が大好きだった。彼の自伝を読んだ時、彼の母が映画館で産気づき長治が生まれたことを知った。その誕生秘話に、私は心底憧れた。映画好きなら、絶対映画館で産気づくべきだ!私はそう思った。 結婚したのが、35歳の誕生日の2週間前。すでに高齢出産ギリギリの崖っぷち。仕事と酒にあけくれて「映画館で産気づきたい」なんていう気持ちもすっかり忘れていた。しかし、完璧なる生活環境移動をはかるべく(現実から逃げたかった)、妊娠。私は38才になっていた。ところが「ま、7ヶ月までもつかどうか」「いずれにしろ、自然分娩は無理ですね」と医師は言う。それならば絶対無事に生んでやるー、とダメと言われるとがんばるタイプの私は、お腹に誓った。我が子は医師の言葉をものともせずすくすくと7ヶ月をクリア。体調が悪くなるどころか、大きいお腹を抱え、ぜいぜい言いながらソリの合わない後輩をどなりつけ、絶好調で出産一ヶ月前まで通勤。辛かったことといえば、夏の暑い日に大好きなビールを思いっきり飲めなかったことくらい。 映画館で産気づく夢をあっさりと否定された私は、その代替案を考えた。胎教は映画、これだ!子供が生まれるまでとにかく出来る限りたくさんの映画を観よう。私は意地になっていた。映画館で具合が悪くなるのは迷惑だから、新作は控えめにしてビデオ屋通いが執拗に続いた。春から出産までの約半年間、その数132本。その数が多いか少ないかは別にして、恐怖映画とアダルト以外のあらゆるジャンルの作品を観まくった。いつか子供に
「おかあさんさー、映画が大好きで、あんたが生まれるまでの半年で観た映画のリストだよ、これ」「えー、すごいじゃん、見せて見せて」 忘却とは忘れ去ることなり、人気テレビドラマ「君の名は」のオープニングナレーションをよく覚えていて(実は思い込み)、何かをうまく思い出せない時は一人このセリフを呟いた。いろんなことを忘れても、それほど不都合とも思えない私の人生だが、こと映画に関してはくやしかった。思い出したい時に監督や俳優を思い出せないもどかしさ。さらさらっと出てくる人に会うと、本当に自分にがっかりした。私の脳細胞は、確実に、ぷちぷちと快音さえ響かせて死滅しているようだった。衰退の一途をたどるだけの脳細胞にいくばくかでも刺激を与えなければ…。息子は小学生になった、社会復帰へのリハビリも兼ねて…。私はしんゆり映画祭スタッフに応募した。去年のことである。
1年目、自分の出来ることを自分の都合のつく時間で…をモットーに、とりあえず、公式パンフレットの編集スタッフになる。編集者の経験しかないので出来ることはそれくらい。それもパソコンのパの字も知らぬまま参加。他にやったことといえば野外上映の時の肉まん売り。途中で保温気が故障してあせった。それと「ひかりのまち」「ラブ・ゴーゴー」のプロデューサーあいさつ。仕事で都合がつかなかったチーフの代理。映画祭はどこからともなくベテランスタッフが集まってきて、つつがなく終わっていた、そんな感じだった。参加した時間が少なかったから当然なのだが、全体の把握も出来ぬまま、存在の耐えられない軽さを実感したスタッフ1年目だった。 今年は、映画祭に最初からちゃんとかかわることに決めた。スタッフ2年目からは上映作品選びに参加できる。どんな風に作品が選ばれていくのかとても興味があった。今年のテーマは「共生」。テーマに作品を合わせるのはむずかしい作業だ。「名画座」「アジア」「ヤング(日本)」を皮切りに野外、バリアフリーのパートを含めて作品選びが始まった。4月、しんゆり映画祭はスタートしていた。 まず自分が選んだジャンルで候補作を出し合う。深く考えもせず「アジア」班と「名画座」班に参加。上映中の作品は映画館へ。旧作はビデオ屋さんへ。レアものは持っている人からビデオが回る。感想を話し合い、メールで補足していく。絞り込んだ作品を各ジャンルのチーフがまとめてプログラム委員会へ。実行委員長を含めた協議を経て再検討。それを繰り返す。映画の好みは千差万別、言ったもん勝ち?押したら引くな?スタッフの意見が簡単にまとまるわけがない。それがまた楽しい。何度かの会議を経て、フィルムの有無、その状態、値段の交渉をして少しずつ作品の大枠が決まっていった。 映画祭のために観た作品。 作品選びの作業と並行して、今年の新スタッフが加わり夏休みを利用してジュニアワークショップの撮影は別進行している。パンフレットの編集作業も始まり、野外上映のために美術部は垂れ幕を描き、看板を作り大小道具のために徹夜をしている。あっという間に夏が来て、野外上映、ジュニアワークショップとプレイベントがひとつずつひとつずつ片付いて行く。そんな風に見える。もちろん、そうではない。どこからともなく、手馴れたベテランスタッフがやってきて物凄い集中力でやりのけていくことはもちろん、何人ものスタッフが夜中、物凄い形相で一人黙々とパソコンに向かっていたりとか、目には見えないところでたくさんのスタッフが働いているのだった。しんゆり映画祭は、ワークシェアリングの現場。そして、ごたごたとか手違いとか眠いとか暑いとか腹が減ったとか金がないとか頭にきたバカヤローとか。そんなことを全部映画が好きという気持ちが呑み込んでくれるから、映画祭は成り立っているのだろう。そう思わずにはいられなかった。そして、それは凄いことだっ た。私は、残りの体力をスタッフのお弁当の調達に使った。ハルエさん、ウメタニちゃんに多謝。スタッフ2年目はこうして終わった。映画祭は、暑い夏の日の、もう一本ビール飲んじゃうよ?という自分に対するうれしい言い訳になった。 「映画が好き」ってなんだろう。映画が好き!という気持ちが、映画を観なくっちゃ!という気持ちに変わって、なんでこうまでして映画に執着するんだろう、と映画を観る自分が窮屈だった時期があった。それでもやっぱり映画は楽しい。もうそんな風にしか説明できないので考えるのはよした。ぷちぷちと死滅していく脳細胞に再生を望むのはもう手遅れかもしれないが、忘れても忘れても、全然思い出せない作品が増える一方でも、映画を観続けていく幸せをのんびりと味わう。脳細胞に喝を入れるなどと思い上がったことなど考えず、自分の感性の置き場所ぐらいは確かめつつ、枯れ葉が積み重なって腐葉土になっていくみたいに自分を重ねていくの楽しむ、それでいいかな、と今は思える。 「たくさん映画を観なさい」。 |
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