わが師・寺山修司さんの思い出
三浦 規成
人間死にかけたとき、人生が走馬灯のように思い出されるというが。私が3年前脳出血で倒れ救急車を待っているとき突然思い出したのが、寺山修司さんだった。今から27年前私は、翌年の就職活動を控え、何か映画の世界に浸りたいと考えていた。就職したら映画と関係ない人生が待っているかもしれないと感じていたからかもしれない。そんなとき目にしたのが、「アテネフランセ」の「映画技術美学講座初等科」のパンフレットだった。月曜から金曜までは毎日午後5時から9時まで土曜は12時から午後9時まで半年間講座があるというスケジュール。大学の授業とも何とか両立できた。今も手元に残るパンフレットを見ると「映画技術者の養成をめざすが、技術を教えるのではなく、技術教育を通して映画の本質を理解していただく」というものだった。そのパンフレットで目に付いたのが、寺山修司さんの名前だった。しかも講師として俳優講座やシナリオ講座を教えるだけでなく、実習作品製作の指導にもあたると書いてある。「これだっ!」と頭の片隅で青信号が点った。
寺山さんというと「天井桟敷」でのアバンギャルドなイメージが強いが、実際に会った寺山さんは、とても論理的な人だった。今、私の働くNHKにも理屈っぽい人が多いが、私は寺山さんほど論理を大事にする人をみたことがない。シナリオ講座で生徒が全共闘運動の挫折に悩む若者を書いたりすると「そんな甘っちょろい悩みは海に飛び込んでクタクタになるまで泳げば消えてしまうと三島由紀夫が言っているがどう思う」と講師と思えぬ鋭い口調で生徒に論争を挑んでいったりしていた。寺山さん独特の世界は、寺山さんが自分の論理を突き詰めていった結果の論理の帰結で、ただ出発点が他人と少しだけ違うだけではないだろうかと私は思っている。それでいながら、俳優講座で生徒に突然一人芝居をやらせ、私など自分でも恥ずかしくなるような演技をしても、「今のはここがよかった。」と真面目にいいところを探してほめてくれるほめ上手だった。実習作品が松田政男氏に酷評された時も、「俺は面白いと思った。気にするな。映画っていうのはそういうものだ」と言ってくれた。(予断だが先日そのフィルムを借りたいと思ってアテネ・フランセに電話をしたら、「どこにあるかわからない。捨ててしまったかもしれない」との答え。ふざけるな!アテネフランセ文化センター)私はそんな寺山さんに父親を感じた。
新宿のゴールデン街にも連れて行っていただいた。寺山さんがそんなにお酒が好きだった記憶はないがもう一人の講師の金井勝さんが好きだった。夜9時に講座が終わると毎日のように飲みに行った。私のゴールデン街通いはそこから始まる。最後に寺山さんの姿を見たのは、その4〜5年後NHKに入ってから、渋谷の宇田川町でだった。雑踏の中すれ違った瞬間寺山さんと思った。しかし、瞬間声をかけるのが遅れ、その後姿を見送った。その数ヵ月後新聞で寺山さんの死が報じられた。それ以来、私は街の雑踏で知人とすれ違うと迷惑がられても大声で声をかける。