「萌の朱雀」と無分別

 

よしだしほ

わたしがしんゆり映画祭スタッフになったばかりの1998年。
その年のプログラムでは、河瀬直美監督の「萌の朱雀」をゲストトークつきで上映することが決まっていた。
この作品にひとかたならぬ思い入れがあったわたしは、とにかくお手伝いをさせてください!と手をあげた。
するといつの間にかわたしたち市民ボランティアスタッフ4人が舞台に上がって河瀬監督を質問攻めしよう!
というお調子ものの企画になっており、何を質問するか額を寄せ合って相談する日々がはじまった。
何を隠そう(隠すほどのことはないが)恥ずかしながら、わたしはゲストトークなるものをテレビ以外で観たことがなかった。
さて、どーしようっ。そうだ、吉野にゆこう!
何を隠そう、 わたしは「萌の朱雀」の舞台となった西吉野村のすぐ近くの町出身なのだ。
というわけで、わたしは里帰りをかねて、さして脈絡があるとも思えない帰郷をした。

わたしの田舎の家には父母が住んでおり、3才になる娘を預けて単身、西吉野村に向かう。
昔からわたしを良く知る父母は、こんな娘に驚かないが呆れている。
まず、映画に出演された和泉おばあちゃんの家へ。
映画のなかでの寡黙さとは違い、和泉さんはよくしゃべる明るいおしゃれな方である。
映画撮影当時は村をあげての大歓迎。
しかし撮影が進むにつれて、
「こんなにしゃべらんでええんやろうか?」
とセリフの少ない寡黙な映画に対する疑問の声があがっていたこと。
「萌の朱雀」完成披露上映会では、村人が登場するシーンで、ストーリーにかかわりない笑い声(笑える映画ぢゃないんですけど)であふれていたこと。
その入場者記録は、「もののけ姫」にも破られていないとのこと。
二人ともおしゃべりなので、話はつきない。

和泉さんに案内を請い、撮影現場となった山の上の村に車を走らせた。
うねうねと車一台がやっと通れるほどの山道を10分以上登る。
ここは文字通り山の上の村なのだ。木々を揺らす風も、早い雲の流れも、すぐに変わる天気も、遠雷も。
撮影当時、数ヶ月前から人手が入っていた畑は、今は夏草が生い茂るにまかせたままだ。
撮影が行われた家は、誰も住んでおらずひっそりしている。
「萌の朱雀」のなかでも離村する人たちが登場するが、実際、この山の上の村にはそんな家が何軒もある。
年老いて、都会に住む息子、娘の元にひきとられてゆくのだ。

家の中まで入れていただく。
朝餉のシーンで使われていた湿った土間の古いかまど、たてつけの悪い障子からさし込む日差し、古木でささくれだった縁側。
「萌の朱雀」には、この家のそんな空気や匂い、光が映し出されている。
わたしの田舎でもそうだが、人は用事があったら電話なんてせずに訪ねてゆく。
そして玄関をがらっと開けて、呼びかけても答えがなければ、土間の奥までさっさと入ってゆく。
だからわたしはこの湿った土間で、そんなふうにして15歳まで暮してきた自分、出ていった自分を思い出さずにいられない。
この映画がわたしにとってのっぴきならない映画なのは、観るたびに、たやすく過去の自分に連れもどされるからなのだろう。それを可能にするリアリティがこの映画には確かにある。
だから、わたしはこの映画を観るだけで、なんだか泣けて泣けてしかなたがないのねと、ようやく納得がいった思いで、帰路についた。

そして映画祭の当日。河瀬監督がゲストでやって来られた。
控室で監督にインタビューをしながらわたしは、泣き出してしまった。
監督にはまったく関係のないことなのだが、
「わたしには、3歳の子どもがいて、ボランティアで出かけていると、不安定になるんです」と言うと、
監督は「身近なもの、大切なものこそ、大切にしなくちゃいけないんだから」というようなことを話された。
自分でもなぜこんな質問をして、泣いたのかわからない。
きっと、慣れないカメラを持って映画祭当日の記録に走りまわったり、テレビでしか観たことがない「トーク」なんてものに出ることになったり、田舎の父母や、もう今ごろ家で寝ている子どものことなんかを全部思い出したりして、感情が沸点を超えていたのだろう。
まったくもう。インタビューだってはじめてだったのだから。

わたしのおかしなところも悪いところも、わかっていても直せないところも、たぶん、「深く考えないで走りだし、走り出してからも考えない」ということらしい。
これ、無分別ともいうのであろうか?

1年目の映画祭は、今振りかえってみても、穴があったら入りたいくらい恥かしい。
でも、わたしは、やっぱり穴には入らずに毎年舞台挨拶させていただいている。
子連れ狼の態でプロデューサー業に飛び回っている。
・・はや4年。ヨシダシホは、ちっとも懲りないんである。合掌。

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