落語で映画 坂田未希子
落語が好きで、ときどき聴きにゆく。ビールを飲みながら、お弁当を食べながら、のんびりと噺を聴く。難しいことなど考えずに、ただただ笑っていればいい。ああ、なんて幸せ。落語=年寄りの趣味だなんてとんでもない!(え?私が年をとったから?)これからは俄然「落語」なのである。木戸銭を払い、一歩足を踏み入れればそこは別世界。いつもとは違う時間が流れているのだ。 落語を聴いていて、いつも驚かされるのが奇想天外なストーリーである。なんというか、自由なのである。発想が。自分が死んだことに気づかずに生活する男の噺とか、貯めた金を取られないように金を詰めたまんじゅうを食べて死んでしまう男の噺とか、その男を焼き場に持ってゆき、骨と一緒にお金を拾う男の噺とか。めちゃくちゃブラックな噺もあれば、超SFちっくな噺もある。何もない時代だからこそ、今より遙かに想像力が豊かだったのかもしれない。 噺自体が面白くても、噺家の技量や雰囲気によって、同じ噺がこうも違うかというほど変わってくることもある。ボソボソと話すため何を言ってるかさっぱりわからないのだが、なんだか笑ってしまうという人もいれば、一生懸命やりすぎて全然笑えない人もいる。個人的にはやる気のなさそうな落語家というのが好きだったりする。 一番好きな落語家は古今亭志ん朝。これからどんどん聴きにゆこうと思っていた矢先に亡くなってしまい、当時はあまりのショックでしばらく落語が聞けなかった。初めて、新宿の末広亭で志ん朝師匠の落語を聴いたときは、出番前からドキドキした。まるで初恋の人にでも会うような、そんな心境。噺の巧さは言うまでもないが、何ともいえない色気があった。もう、ほんとうに聞けないのだと思うと悲しくて、未だに師匠のCDは聴けない私である。 おっと、落語の話が長くなってしまった。シネマエッセイである。映画の話をしなければならない。 立川流家元、立川談志の弟子に立川志らくという落語家がいる。彼のオリジナルで人気なのが「シネマ落語」である。映画を落語に作りかえるというものだが、これがなかなか面白い。本人は自ら映画を撮るほどの映画好きで(今までに4本制作)、「シネマ落語」のレパートリーは60本を超えるという。果たして『ダイ・ハード』や『ゴッドファーザー』、『タイタニック』を、どう落語にするというのか。 「シネマ落語」では、プロローグとして古典をやり、その後、本編に入るのだが、ここでうまい具合にはじめの古典が絡んでくるのである。この絡み具合がなんとも絶妙で、ただただ映画を落語にするだけではない面白さが出るのだと思う。なるほど、落語と映画が見事に一体になっているのである。 劇場では何度か聴いたことのある「シネマ落語」だが、過日、TVで観る機会があった。演目は『エデンの東』。まずは本家本元の映画『エデンの東』を見てから、シネマ落語『エデンの東』に移る、というスペシャル企画である。 プロローグは、3人の男が同じ女郎から起請(結婚の約束状)をもらってしまう『三枚起請』というお噺。3人が3人とも「俺こそが」と思っているのだが、最後には女郎の方が逆ギレしてしまうのがおかしい。そしていよいよ「シネマ落語」に・・ 舞台は明治、お江戸日本橋である。J・ディーン演じる主人公のキャルは「平吉」に、ヒロインは「お花」だ。ろくに働きもせず、よいしょばかりしている平吉は、死んだはずの 母親が吉原に居ることを知り、その店の幇間(たいこもち)になることに。父親は商いとは別に富くじを売っているのだが、その売上金を無くしてしまう。そこで、平吉は父親のために幇間で稼いだ金を渡すのだが・・・と、あとは映画のシーンとダブってくる。 ラスト、父親と息子の和解のシーンでは思わず涙が出てしまった。落語を聴いて涙が出たのは初めて。ひたすら「噺を聴く」ということで、登場人物の感情がより伝わったのかもしれない。それはもちろん、志らくの巧さでもあるのだが、映画『エデンの東』があればこそのことでもある。映画と落語という、まるで違う二つのものが出会ったことで相乗効果を生み出したのだろう。
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