若松映画は危険の香り

三浦規成

野外上映で共に日本酒を販売した同志・山名が、このシネマウマエッセイで書いた、『エンドロールは桜桃の味』で「人生でのがした最大の好機」を読み、私も筆を取ることを決意しました。私の場合、好機だったのかどうかはわかりませんが、それは、大学3年の時に訪れました。


当時、大学の映画研究会で活動していた私はその年の大学の文化祭で若松孝二監督の「胎児が密漁する時」と「処女ゲバゲバ」の上映会を計画しました。しかし時は1975年。若松監督が「赤軍PFLP世界戦争宣言」を撮った後で、イスラエルで赤軍派がロッド空港事件を起こした余韻がまだ残るころでした。
大学の上映会場には公安とおぼしき人物がたむろし、異様な雰囲気がただよっているように私には思えました。そして、上映会が終わった後危険(好機)はやってきました。

上映会で大赤字を出した私とある女性部員は財布に千円札が2〜3枚しかない状態で街に飲みにでました。当時金のない時に飲みに出るといえば池袋の「清龍」という居酒屋チェーン店でした。
なにしろ合成酒が一合80円。煮込みが130円という安さでした。当日、いつもの合成酒を飲みながら湯豆腐を「あて」にし、豆腐がなくなるとたまたま隣りで飲んでいた映画評論家松田政男氏と斉藤正治氏が食べ残した冷奴を店員が片付けに来る前にそっと我々の鍋に平行移動するという荒業を敢行していました。

その日は上映会が終わった高揚感で二人とも非常にハイな気分になり、普通の男女なら「ラブホテルに行こう」とでもなるのでしょうが、我々の場合はマッコイ・ターナーの「フライ・ウィズ・ザ・ウインドウ」を論じながら「公園に行って空を飛ぼう」ということに衆議一決しました。そして千鳥足で近くの公園にいったのですが、勿論空を飛べるはずがありません。ブラブラしていたとき見えたのがブランコでした。
「これで空を飛べる」
私はブランコに飛び乗り思い切りこぎだしました。そして20秒後、
空中に飛び出したのです。心のなかでは「飛んで行けー」と思い切り叫んだのでしたが、足が50センチ浮いただけ。逆に頭が下になり、あえなく墜落したのでした。しかも悪いことに地面にはレンガがあり頭がそこめがけて落ちた為、大量出血。その28年後脳出血になった私は、「あの時の傷口だ」と病院のベットで小さくつぶやいたのでした。こうして、私は鳥になれなかったのでした。

危険(チャンス)は私だけにやってきたわけではありません。上映会を一緒にやった女友達にもやってきました。

数日後、自宅にいた彼女のもとに1本の電話がかかってきました。受話器をとると相手はいきなり言いました。

「京都からきたものですがお会いできないでしょうか。若松監督の上映会に行った者なのですが」

あまり深く考えず新宿のジャズ喫茶行った彼女に相手は言いました。

「よければ、アラブに一緒に行きませんか」

瞬間目の前を火花が散ったような気がしたと彼女は言います。相手のいう意味がすぐにわかったからです。しかし、当時の彼女にはその覚悟も思想もありませんでした。すぐに辞退し帰ったといいます。

それから四半世紀。あの時「行きます」と答えていたらどうなっていたのでしょうか。

あの時以来、私も山名さんと同じように余生を送っています。
        
        日本酒万歳!

> KAWASAKIしんゆり映画祭TOP > シネマウマエッセイTOP