「映画が好き」 ああ、なんて罪な言葉


イソギカズヨ


「私、映画が好きなんです」「あ、私も」
ほとんどの人はこの会話をしたことがあると思う。そして、この会話をした途端、人は間違いなく目がキラキラする。ちょっとウキウキ♪と言ってもいいだろう。次に来る「で、どんなの観てるの?」で、奈落の底に突き落とされることも忘れて。

去年の暮れ、とあるアメリカ人と食事をする機会があった。初対面だったので無難な会話が続いた後、当然のごとく「映画が好き」の話題になった。相手がアメリカ人だった時点で、イソギの要注意信号はすでにピコピコと点滅していたのだが、とりあえず話をすすめてみた。

米:「最近、観た映画は何?」
イ:「ビデオでだけど『アパートの鍵貸します』。やっぱりこの時期、この映画はマストでしょ」
米:「『アパートの鍵貸します』?」
イ:「昔の映画。名作なんだけど」(あ、シマッタ;)← イソギ心の声
米:「誰がでてるの?」
イ:「ジャック・レモンとシャーリー・マクレーン」
米:「ジャック・レモン? じゃあ、コメディでしょ。彼はグレイトなコメディ俳優だもんね。ハッハー!」
イ:「・・・」
(ジャック・レモン様はコメディ俳優と呼ばれるのを生涯嫌っていた方なのだあ。簡単に言ってくれるなあ。ハッハー!じゃないっつーの)← イソギ心の叫び

ここでダメを出すのはいとも簡単。でも大人気ないではないか。最近観た映画に1960年制作のハリウッド映画を挙げる私も私だ。
「おいしい生活」(ビミョー)とか「メメント」(さらにビミョー)とか言っておけばよかったのだ(本当か?)。気を取り直して、別の質問をしてみた。そして、さらなる悲劇が起きた。

イ:「2001年のあなたのベスト・フィルムは何?」
米:「ベスト・ムービー? う〜ん。そうだな。『シュレック』かな」

私が悪かったのよー!!!そう私が悪うござんした。そもそも市井のアメリカ人と映画の話をしたのが間違いでした。
2001年の最高作品が「シュレック」だっていいの。だって、「映画」ですもの。

似たような経験は誰もがしているのではないだろうか。「映画が好き」な人と「映画」の話で盛り上がろうとしたら、恐ろしいほど観ている映画、好みの映画が違った、なんてこと。このときは「映画が好き」の一言で、「これから盛り上がるゾ」という勢いが心の中に生まれているから、その萎えかたも強力で、もうその後の会話の弾まなさと言ったら。アナタ。つらいです。つらすぎます。要注意信号が点滅していたとしても、ガックシなのだ。

なぜ、このような悲劇が起こるのか。それは「映画が好き」と「好きな映画」が往々にして混同されるからだ。つまり、実は映画のテイストが全く合わないにも関わらず、誰もが「映画が好き」という範疇にくくられてしまう。さらに、「好きな映画」は別にしても、年間10本(ほとんどビデオで)観る人も年間300本(劇場とビデオ半々で)観る人もやはり映画が好きになるのだ。なぜなら自己申告だから。
「私、『映画』が好きなんです」

この混同と自己申告、つまりは「映画が好き」≒「好きな映画が同じ」≒「観ている映画が同じ」という大いなる勘違いのおかげで、相手に過度な期待をして、勝手に一人で燃え上がり、結果、打ちのめされるのである。で、その打ちのめされ方にも実は種類があり、前出の相手が自分より低温の「映画が好き」の場合と、相手が自分より高温の「映画が好き」の場合がある。

相手が自分より高温な場合は、ポジティブな意味で打ちのめされる。
知り合いのイギリス人で熱狂的なアジア映画好きがいる。アジア映画と言っても、日本・韓国・香港・台湾・中国のコンテンポラリーものが主である。日本映画に関しては、岩井俊二作品をこよなく愛している様子。イソギも岩井作品は観ている方だが、いかんせん情熱温度が違う。だから彼と岩井映画の話で盛り上がるのは実は、すこしキツイ。まあ「四月物語」を観た、というだけで喜んでくれたが。
さらに彼は当時まだマイナーだった「行定勲」の名前を出し、「なんて読むの?」と聞いてくるような人である。無知なイソギは「『行定勲』が日本人かどうかも怪しい」と思ったくらいだ(当時ですよ。当時!)。彼みたいなアジア映画に対する熱さは、日本人としてはうれしいが、ジャンルが限られている分、己の知識不足・勉強不足に打ちのめされ、軽いうつ病になってしまうような種類である。
もちろん「日々是精進。やっぱり映画を観よう」って思えるけれど。

話は少しずれるが、「もっと映画を観よう」と思える刺激はとても大事である。
先日、知人を介してある女性を紹介してもらった。彼女もイギリスに住んでいた事があり、話は自然とイギリス&イギリス映画になった。そして、彼女はおもむろにこう語った。

「私、『アナザー・カントリー』が公開されたときに、ルパート・エベレットにはまってね。彼の出身地のノーリッジまで行ってきたの」

ま、負けた。イソギ完全敗北。別に誰も勝負はしていないのだが。好きな役者の出身地と来たか。う〜む。ロケ地が観たくて、
独り「ランド・ガールズ・ツアー」を敢行したことはあるが、気になる俳優の出身地に行こうという発想は全く持っていなかった。ワタクシ。かなり青天の霹靂。

他にも

「函館山の頂上に3日間閉じこもり、朝から晩まで映画(1日平均5本)を観て腰に異常をきたした」
「東京国際映画祭前売り発売初日は、朝5時に文化村に行き先頭に並ぶのが毎年恒例」(1998年当時)
「失業中のくせに、ワイルダーの本(2万5千円!)を買った」
「1984年4月下旬号から買い集めているキネ旬を保管するためのキネ旬部屋がある」(現在も更新中)
「小学生のときに観たE.T.にはまり続け、20周年記念リバイバル上映は劇場で8回観た」」(10回でないのが無念;)
「アメリ初日に2時間並び初志貫徹」

などなど、こういうファナティックなエピソードは意外と周囲にあるものである。そして心地よい刺激を与えてくれる。

話をもとに戻そう。「映画が好き」の悲劇である。ショックである。うつ病である。しかし、実は、これに付随している「好きな映画」の方がもっと恐ろしいのだ。どんな映画を好むかで、その人の嗜好・思考がいきなり分かってしまうからだ。人格が見抜けてしまう。今後の付き合い方の判断基準にまでなってしまう(ちなみに前出のアメリカ人とはあれ以来音信不通)。おお、コワッ。
例えば、「この人ちょっといいかも」と思った人の人生のベスト・フィルムが「シベ超」なんて言われた日には、シャレで笑い飛ばすには、イケてるが、目がマジだったら、もう一体何をどうしたらいいのか分からない。「私は『ペキフー』」とでも言ってみるか?

もちろんその逆パターンこそが「映画が好き」の王道である。
初対面の人が、自分の大好きな作品を同じように大切にしていることが分かった途端、人は間口を一気に押し広げ、相手をたやすく受け入れるようになる。あるいは、苦手だと思っていた人や興味のなかった人が、ポジティブな意味で、受けていた印象とは異なるテイストの映画を絶賛している事が分かった瞬間、人はその人のことを見直し、もっとその人と話をしてみたいと思う。キラキラした目で。

先日、とあるビジネスセミナーに参加した。映画とは全く関係のない世界である。セミナー終了後の懇親会で、講師の一人に話しかけてみた。名刺交換から始まる、まあ、よくあるネットワーキングである。
話の流れで彼はこう言った。

「いやあ、この業界も映画と同じですよ。洋モノっていうとアメリカ&ハリウッドって感じですから。でも僕は洋モノでもハリウッド以外のものがいいんです。『ウェイク・アップ!ネッド』ってご存知ですか? − 中略(花粉症の真似つき。ラブリー♪)− あの最後の俯瞰がいいですよね。ハリウッド映画だったら、どってことない絵なんですけど、あれをあの作品でやられると、もう本当に幸せになりますね。だから僕はこの業界での『ウェイク・アップ!ネッド』を創りたいんです」

「きゃあああああ」である。「うわおぅ」である。血中のアドレナリンが急増し、思わず両手握手したい衝動に駆られた。まさに、仕事そっちのけ。こういう不意打ちのベストマッチが起こるともうたまらない。「期待」というものが一切ないところから、よりによって都内単館上映、しかも銀座テアトルと来たもんだ。いきなりの直球&大命中である。

こんな風に大好きな作品を同じように誰かと絶賛できるときこそが至福だと感じるのが世の常、人の常。自分がこっそりと観ていたマイナー作品を同じようにこっそり観ていて、大切にしている人に出会ったら、それは何にも変えがたい宝になる。そんな瞬間を求めて、「映画が好き」は打ちのめされても、奈落に突き落とされても、うつ病になっても「映画が好き」ワールドをさまようのである。

至福か奈落かうつ病か。「映画が好き」の葛藤の日々は今日も続くのである。

「映画が好き」やっぱり罪な言葉である。


追記:「映画好き集合」の記事を見て、しんゆり映画祭スタッフに応募したのだが、実際はなかなかスタッフの方々と映画の話をする機会がなかった。しかし、映画祭期間中、「ああ爆弾」を観た後に、Y田さんが3年前に「君も出世ができる」の担当だったと聞き、その場(実は受付)で、「♪でき〜る♪で・き・る♪」と一緒に歌えたのは本当に幸福であった。感謝。


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