「中山隧道(ずいどう)」って何?
新潟県山古志村小松倉にある、日本最長の手掘り隧道(トンネル)。高さ6尺、幅4尺(掘削当時)、全長922メートル。昭和8年(1933)より小松倉の住民が16年をかけてツルハシで掘り、昭和24年(1949)に貫通させた。以後新トンネルが貫通するまで49年間、住民の暮らしを支える道として活躍。1998年(平成10年)に閉鎖されたが、先人達の偉業であるこのトンネルを保存し、広めようという動きが高まっている。 |
「中山隧道」掘削の背景
山古志村は積雪7〜8メートルの豪雪地帯。山塊に囲まれた村の中でも最深部に位置する小松倉は当時約60世帯が住んでいた。養蚕・コメ・炭焼きしか生産物が無い集落には病院や商店などがなく、用事がある時は険しい中山峠を越えるしか方法がなかった。片道2時間近い道のりを妊婦や病人を背負って運ぶなど状況は厳しく、吹雪の時には死者も出た。 そこで住民達は、自らの手で隧道を掘ることを決意。資金もなく反対派との軋轢もあったが、身銭を切って外から測量技師を呼び、農閑期の冬に限り交替で掘り始める。徐々に行政の支援も取り付け、村人達の団結も高まり、ついに16年後に貫通した。 |
「中山隧道の記録」(仮)制作にあたって
(ディレクター・橋本信一)
映画は既に、当時掘削に当たった老人達のインタビューを行うなど、撮影を続けています。専門知識もなく、貧しい村でなぜトンネルを掘ろうと思ったのか、そして掘ることができたのか。単なる「偉人物語」ではなく、彼らの業績を通して日本人の精神風土に迫りたいと思っています。 山古志村は興味深い場所です。この村は「ニシキゴイ」の発祥の地で、200年余り昔から棚田にコイを放し、養殖を続けていました。貧しく生活の余裕もない村で、なぜコイを「食用」としてでなく、コイに「色をつける」ことに専心したのか。彼らの感性豊かなイマジネーションに驚かされます。「自分達の代でトンネルが掘れなかったら、子供たちに、それでもダメだったら孫たちに受け継いで掘り続ければいい」という、普通なら考えもつかない楽天的な発想・想像力はどこから生まれたのか。突き詰めれば「日本人の精神風土」に行き着くのではないか。背景にある日本人のメンタリティーを探り出したいと思っています。 山古志村は過疎化が進んでいますが、老人達はおおらかで、暗さがありません。マムシの生態を日記につけている人など、人生を退屈せず、楽しんでいる様子が感じられます。今、日本は自信のあった経済も低迷し、地方は特に「暗い」ことがクローズアップされがちです。しかし、実際は「こんな日本人もいるんだ」「日本人はすごいんだ」ということを掘り出し、海外の方にも知ってもらいたいと思います。 |
「中山隧道」詳細年表 |
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年月日 | 出来事 | |
昭和7年 | 2月 | 村人の間にトンネル掘削話が持ち上がる。数日後、村の有力者を集めての会合を開く。 |
8月12日 | 小松倉の部落総会にこの議題が持ち出されたが、話はまとまらず見送りとなる。 | |
10月8日 | 峠の薬師様の祭りの日、村の主だった人間たちが現場視察。 | |
昭和8年 | 村の葬儀に出席した人間の紹介で小出町の測量技師・森山忠雄氏(田中土建)が測量を快諾。測量開始(10月23日から5日間、11月9日から4日間)。費用は小川金作が日本石油の株券で支払った。 | |
11月12日 | 山の神の命日であるこの日に鍬立て式。 | |
中山隧道開鑿期成会結成(初代委員長・小川金作)。 この年、大雪により、コメなどに大被害。凶作のため多くの村人が出稼ぎに出る。 |
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昭和9年 | 10月 | 全体の3分の2である41名が期成会会員として署名、捺印。 役員は50円、会員は30円を拠出。 木製のトロッコレール(養蚕に使う棚木)も各戸拠出。 隧道は農閑期の冬のみとする。 |
昭和12年 | 東京に出て成功している小松倉出身者にも援助をもらおうと、小川寅吉が上京。 | |
昭和13年 | 小松倉では最初の戦死者の公報。 | |
昭和14年 | 10月21日 | 計測で144メートル掘り進んでいた。 |
11月 | 160メートル掘り進んでいた。 | |
昭和15年 | 8月15日 | お盆に在京出身者15人の協力金あり。2日後の総会で一致団結を誓い合う。 |
昭和16年 | 松崎伊治郎村長、村長を退職。新村長に関清吉(梶金部落)。 | |
昭和18〜22年 | 戦争のため工事中断。 |
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昭和20年 | 10月 | 松崎伊治郎村長死去。 |
昭和22年 | 11月 | 松崎利得・新村長就任。 松崎新村長、地方事務所でのアドバイスにより県庁通いをし、「民有林開発林道」という制度にのせることを認めさせる。 測量もやり直し、トロッコ・レールも準備し本格的工事。 出費は県30%、村の会員70%。 冬だけの作業ではなく、昼夜2交替で作業が進められる。 |
昭和24年 | 4月 | 水沢新田側(反対側)からツルハシの音が聞こえ始める。 昼夜2交替→昼夜3交替になる。 |
5月1日 | トンネル貫通。 (昭和8年11月の着工以来、16年目。投入された労働力延べ3000〜5000人。丸15年と5ヶ月。全長922メートル) |
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5月8日 | 中山隧道開通祝賀会。松崎前村長の墓前に報告。 | |
昭和25年 | トンネル2期工事(拡張工事)開始。 3交替制で、11月中旬完工。幅2メートル、高さ2メートル50。 |
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昭和31年 | 3月31日 | 四村合併で山古志村となる。 |
11月1日 | 中山トンネルが県道に認定される。 | |
昭和51年 | 松崎利得村長、田中角栄を訪ねる。 | |
昭和54年 | 田中角栄、中山トンネルを訪れる。 | |
昭和55年 | 建設省、地方道の国道昇格を検討し始める。 | |
昭和57年 | 4月 | 国道291号線のルートとして認定。 |
昭和61年 | 8月 | 改良期成同盟発足。 |
昭和62年 | 11月 | 国道291号線上にある山古志村・広神村・小出町・湯之谷村の各町村長による「国道291号線中山隧道改良促進期成同盟会」が正式に発足。 |
平成7年 | 2月 | 新トンネル起工式。片側3メートル、2車線。 |
7月 | 本格的掘削スタート。総工費25億円。 | |
平成10年 | 12月14日 | 新トンネル竣工式。 |