赤い橋の下のぬるい水
今村組制作報告第三弾:ダビング編
音響が映画の文体を確定する
『最近、ダビングと言うと音楽テープやビデオテープのコピー作業と勘違いされるのでかなわんよ』 とミキサーの紅谷愃一さんは苦笑した。 そう、映画におけるダビングとは、すべての音響を整える最終作業を指す言葉である。 以前、ベテランのカメラマンが『ダビングと聞くと、 この映画もやっと完成するんだなと、安堵と寂しさの入り交じった不思議な気持ちになるんですよ』 と話してくれたが、 映画のダビングには遠洋航海の終わりに似たロマンチックな雰囲気が漂っている。 |
3月26日、今村組のダビングを取材するため久しぶりに日活撮影所を訪ねた。 今村組の今回のダビング作業は5日間。 22日から始まっていたのだが、当方の仕事の都合でギリギリ最終日に間に合った次第、少々後ろめたい思いでダビングルームに入る。いつも思うのだが、今村組のダビング風景には独特のものがある。ピーンと張りつめた緊張感と、そうした空気を和らげる今村監督のユーモアである。 この今村組独特の雰囲気は30年経った今日でも少しも変わっていない。そして、風景の中心にいるのが録音技師の紅谷愃一さんである。 紅谷さんは若いころに京都大映から再開した日活に移り、川島組(川島雄三監督)の録音助手に配属された。そこで彼は、川島組のチーフ助監督をしていた鬼のイマヘイと呼ばれていた若き日の今村昌平さんと出会ったのだという。 昭和30年頃の話だから、二人のコンビはすでに半世紀近い長いものである。 「この人は将来凄い監督になると思ったね」 当時、録音のチーフ助手だった紅谷さんは、この大声を出す巨漢の助監督に惚れ込んだ。一方、今村さんの方でも紅谷さんに注目していた。 「紅やんは、きびきびした切れ者の助手だったね。彼はいつも新しい試みに挑戦しようとしていた。だから、監督になったら一緒に組みたいと思っていましたよ」 1965年、今村さんは日活を離れ今村プロダクションを結成した。そして、独立プ ロの第1作 「人類学入門」で紅谷さんを録音監督に起用した。 紅谷さん35歳、当時の日本映画界では異例の昇進である。それ以後、紅谷さんは今村プロの劇映画からドキュメンタリーまでほとんどの作品の録音を担当してきた。もちろん、カンヌのグランプリを受賞した「楢山節考」も「うなぎ」も彼が手掛けた作品である。 「赤い橋の下のぬるい水」はリストラで職を失った中年男が、身体中にラブジュースが溜まってしまう不思議な女性と出会い蘇生する大人の寓話である。 こう書くと、なにか淫らな印象を受けるかもしれないが、そうではない。作品のテーマは「生きとし生けるものすべてを育む水」の物語であり、出来上がった映画は、むしろ、からっとした人間喜劇でさえある。 『毎度のことだが、今村さんはシンクロ(同時録音)が基本でしょう。魚市場や漁船の中のセリフのやり取りでは苦労しましたわ』 映画はTVと違い、現場で音声を採る録音技師がスタジオ・ミキサーを兼ねるケースが多い。だから、紅谷さんもロケハンで撮影現場の周囲にノイズの発生源がないかを懸命にチェックする。大きなエンジン音や工事場の騒音、蝉時雨や蛙の合唱、犬の吠え声はすべて紅谷さんの憎むべき敵なのである。 一番大変だったのは二人のラブシーン。噴水のように吹き上がるラブジュースを浴びながら清水美紗の重要なセリフを聞かせなければならない。 『アフレコなら何でもないことが、シンクロだと十倍の神経を使こうてしまう。これはスタッフだけじゃ無く、俳優さんも同じですわ』 ハリウッド映画はほとんどアフレコ(撮影終了後、スタジオでフィルムに口会わせしてセ リフを入れ込む。日本でもアニメはすべてアフレコ)である。日本映画も昭和45年まではほとんどがアフレコだったように記憶している。 『今村さんは「にあんちゃん/ ”59」の時にシンクロでやりたいと言い出し、「にっぽん昆虫記 / ”61」ではワイアレスマイクまで試みてね。とにかく現実音にこだわる人だった。けど、当時は今みたいに6ミリテープで取れる録音機が無くてね・・・』 1965年冬、「人類学入門」で録音技師に昇進した紅谷さんに今村監督は全編オールシンクロでの撮影を宣言、若き紅谷技師はパーフェクトーンという不安定な録音機で挑戦し、見事に監督要望に応えた。この時から今村映画のレアリズムに音声が加わり、「人間蒸発」「神々の深き欲望」といった新しい今村映画の世界が築かれてくる。 今村さんは何故そんなにシンクロにこだわるのか?以前、ご本人に聞いてみたことがある。 『松竹ではステージにセットを組んで“人工的世界”の中でドラマを作っているんだ。助監督しながら見てるんだけど嘘臭く見えて仕方なかった。日活撮影所のアクション映画も同じだね。ベニアの張りぼての中で石原裕次郎が暴れているんだが、厚い壁をぶち抜くタフガイの腕力の迫力が感じられない。裕ちゃんが気の毒で仕方なかったよ』 小津安二郎監督の助監督だった今村さんは、セットに作られた六畳間で、小津監督の指示に従い花瓶の位置を数センチづつ動かしていたのだという。 『小津さんはカメラのルーペを覗きながら、“もうちょっと、鎌倉へ”なんて言ってね。 蒔絵師みたいに精密な絵づくりをするが、生身の役者の芝居はいじらないんだ・・・』 黒沢明監督の「酔いどれ天使」に憧れて映画に飛び込んだ闇市派の今村青年としては、 小津芸術は理解出来ても、『でも、やっちゃ居られません』という気持ちだったのだろう。後年、今村映画を見た小津監督が 『今村君は汚いのが好きなんだな』と、ポツリと言ったそうだ。しかし、これは今村さんから聞いた話で、うまく出来過ぎてると思った。 この日、 紅谷さんは最終ロールのテストを何回も繰り返していた。ダビング・ロールとは、2時間のフィルムを細かく分割して作ったダビング作業用フィルム。今回は16ロールに分けたと編集の岡安さんが教えてくれた。 最終ロールはラストシーンの部分なので、より念入りにテストが繰り返されるのだ。 『紅さん、もう少し波の音を押さえて音楽を上げてくれませんか 』 本番テストに入ろうとしたとき音楽の池辺晋一郎さんが注文を出した。池辺さんは、ご存じのようにNHKの大河ドラマで有名な作曲家である。今村映画の初期の音楽は黛敏郎さんが担当していたのだが、黛さんが亡くなってからは、「黒い雨」の武満徹氏、「カンゾー先生」の山下洋輔氏のお二人を除いた全作品を池辺晋一郎さんが担当している。 今でも覚えているが、池辺さんの「復讐するは我にあり」の音楽は凄いの一言だった。 緒形拳が演じる冷酷な殺人者のすざましい緊張感と躍動感が、スクリーンを抜けて観客に突き刺さってくる・・日本映画史に残る大傑作だった。 池辺さんと紅谷さんは「楢山節考」「うなぎ」のグランプリコンビでもある。 さっそく、池辺さんに今回の作品の音楽について聞いてみた。 『水がすべてです。水をどう表現するか、そのためにオンド・マルトノを使いました』 『オンド・・・?』 『オ・ン・ド・マ・ル・ト・ノ、フランスの楽器です』 『聞いたことのない楽器ですね』 『1928年にモリス・マルトノが作った電子楽器みたいなものです』 『音を聞くと弦楽器みたいですね、オンドマルチェ・・・』 『オンドマルトノ。ハハハ、丸腰の殿様って覚えると良いですよ』 池辺音楽は水の柔らかさというより、水の流れ、流体の自在な動きをうねるように表現している。オンド・マルトノの音は胡弓やチェロよりもドライで、金属のテープが飛翔するような鋭い不思議な音色である。なるほど、原始的なシンセサイザーと言われればそう聞こえる。でも、デジタルのCDを使わずアナログのLPを使った(下手な比喩だが)ところに池辺さんの心意気が感じられて面白かった。 『ラスト・ロール本番行きます!』 紅谷さんの大きな声が響く。ダビング・ルーム内に緊張が張りつめる。ビデオやCMのMAではこうした「本番」の声がなく、知らないうちに終わったと聞かされ物足りなさを味合わされる。 その点、映画の撮影やダビング時の「本番」は気合が入っていて気持ちが良い。 特に、今村組のDBコンダクターである紅谷愃一さんの“気合”は魅力的である。 映画の最後の最後、クレジットの今村昌平の文字が消え紅谷さんのフェーダが閉じる。 『・・・・OK』 少し間を置いて、紅谷さんは今村監督の方を振り返る。 『OKです。ご苦労さん』 と今村監督。その瞬間、スタッフから一斉に拍手が起こり、5日間続いた今村組のダビングは完了した。 ダビングが終わると、室内にビールと簡単な肴が運ばれ乾杯が行われた。 今村昌平監督が立ち、スタッフをねぎらう挨拶が始まる。 『今回は私もいろいろ迷うところがあったが、皆さんから良い意見や提案をいただき大変助かりました。難しい作品だったが、そうした皆さんの力に助けられて上々に仕上がったと感謝してます。ありがとう』 前年の10月から始まった今村組の「赤い橋の下のぬるい水」はネガ編集と0号試写 を残して終わった。今村作品の常だが、今回も撮影現場での取り直しやCGの失敗などの困難極まる状況の中で、1本の新しい映画が生まれてきたのである。 『今回のポイントはやはり水の音だね。海の音、川の音、水滴の音、魚の水音、そして人間の水音かな・・。今村さんは現実に潜む微細な音を大事にする人だからね。不要な音を意味もなく強調するのを嫌がるんだ。それに、ミキサーの仕事は部分のディティールを確保しながら、同時に映画総体としての音を発見しなければならない。つまり、映画の文体を最終的に確定する・・・何年やってても難しい仕事ですわ』 紅谷さんは少し照れたように笑った。 紅谷愃一69歳。今村昌平、黒沢明、蔵原惟繕、浦山桐朗、熊井啓、降旗康雄・・・日本映画のそうそうたる監督たちの録音を担って来たプロ中のプロである。紅谷さん、本当にご苦労様でした。(T) |
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