座談会 ファザーレス世代の映像表現 98年10月8日(木)19:50〜
司会:佐藤忠男(映画評論家・日本映画学校校長)
ゲスト:茂野良弥(「ファザーレス/父なき時代」監督)、村石雅也(「ファザーレス/父なき時代」企画、出演)
●インタビュー実録
・作品の成り立ち〜卒業制作を家族ドキュメンタリーで撮ろう
・ドキュメンタリーとプライバシーの問題について
・作品撮影の実際〜カメラがいると普段しゃべらないことをしゃべる、というカメラの力
・作品制作の準備、研究、計算、作為、演出について〜「ヤラセ的だといわれることは、作品の狙いとしてあらかじめあった。」
・卒業制作版から劇場公開版へ〜「劇場公開版としてしっ
かり結果をだしたい、そうでなければ、自分が許せない」
・海外の映画祭でも評価をうけて
・会場からの質問
●「ファザーレス/父なき時代」ユーロスペースにて6月中旬公開予定
「ファザーレス/父なき時代」は、日本映画学校第九期生のドキュメンタリー,ゼミナールの諸君が山谷哲夫講師の指導の下で制作したビデオによる卒業制作作品である。 オリジナル版は1997年2月の卒業制作発表会で初公開、生徒・講師一同に衝撃的な感銘を与えた。これでスタッフのうち、村石雅也、小宮裕治、茂野良弥の三人が卒業時に今村昌平賞を受賞した。
その後16ミリ・フィルムにして日本映画製作者協会の映画祭に出品して学生映画賞を受賞した。さらにニューヨーク大学の主催でイタリアのフィレンツェで行われた国際映画祭に出品。参考作品としてコンペティション外で上映されたにもかかわらず、上映終了時に観客が立ち上がって拍手したうえ、諸外国の学生たちからこの作品を賞の対象とすべきだという署名運動が自発的に起こり、その結果「スチューデント・チョイス」という賞が臨時に作られて受賞するという異例の扱いを受けた。これで国際的に脚光を浴ぴ、いくつかの外国の学生映画祭に招待上映された。また、ニューヨークのジャパン・ソサエティでの近年の日本映画の代表的な作品の上映会に、やはり本校の卒業制作のひとつである本橋雄一(同九期)のドキュメンタリー「朝鮮人BC級戦犯の記録」と共に公開された。
こうした動きの中で、すでに本校を卒業したスタッフの有志は追加取材と再編成による劇場公開版の制作をつづけ、1998年10月に完成して川崎市の「しんゆり映画祭」で一回だけ上映した。
この座談会の行なわれた翌日、村石雅也はドイツのマンハイム国際映画祭に出発した。この映画祭にはまだ劇場版は間に合わず、卒業制作版での上映になったが、最優秀ドキュメンタリー賞と国際映画批評家連盟(FIPRESCI)賞をダブル受賞した。映画学校の実習制作作品がこういう由緒ある本格的な映画祭で一般の作品と競って受賞したのも異例のことである。
日本映画学校の学生の村石雅也が自分の性格に悩みを持って、その原因を知るために、故郷の町に行き、母と、離婚して以来長年会っていない実父と、義父とに会い、話し合いを重ね、ついに親たちに対する深い理解を得ることができるようになる。この過程を同じゼミの学生のスタッフたちが終始見守り、助け、そして記録したものである。
佐藤 :この線路の向こうに日本映画学校という学校がございまして、今村昌平さん
が始めた学校です。今日ご覧いただいた映画は二年前に卒業制作の中の一本として作られ
た作品で、その年度の今村賞を受賞しました。その後いろんなコンクールに出品して、国内外でいくつかの賞をもらいました。一時間弱のものだったんですが、彼らはもっと本格的な作品にしたいということでさらに撮り足し、30分ほどつけ加えました。そして、編集し直したのがこの作品です。これを何とか劇場公開にこぎつけたいと思っているんですが、この版は私も今日初めて見ました。前の版は何度も見ておりますが。
この作品はいろんな問題を含んでいます。この企画の最初の成り立ちから話してもらい
ましょう。
村石: 企画と出演をした村石です。今日はこんなにたくさんの人に来て頂けるとは思っていながったのですごく緊張しています。先程話がありましたようにこれは劇場公開版なんですが、その前に映画学校の卒業制作として作っていました。この企画をなぜやろうとしたかについてですが、僕らは学校のドキュメンタリーゼミの中で、家族をテーマに何かやってみようということになりました。先輩の中にも傑作を作った人たちがいまして、僕らもその流れでやってみないかという話があったんです。ちょうどその頃、僕は映画の冒頭にもあるように内向的な生活をしていたので自分自身、自分のことで一杯でした。そんな時、ここにいる茂野や小宮(編注 卒業制作時の演出の一人)やなんかが、お前の家族を撮って、自分自身の問題を映画の中でつきつめていったらどうか、という話で盛り上ってきたんです。そこで僕はこれを一つの賭けというか挑戦としてやってみようと思いました。
佐藤 : それで茂野君はどういうふうにかかわっていったわけ?
茂野: 最初は村石を撮ろうとは全然思っていなかったんですけど、ある時,村石がゼミに全く顔を出さなくなったことがありまして、どうしたのかということで話をしてみたところ、それまでの彼はどっちかというと全然口をきかないで一人で落ち込んでいるような人で、僕らは何かおかしな奴だなあ、と思っていたくらいなんですが、学校に来なくなったということがあって初めて彼の生い立ちを聞きました。それを聞いた時、僕らのやろうとした家族ドキユメンタリーは村石にやってもらったらいいんじゃないかということになりました。ところが村石はいろんな問題を抱えていて、最初は一体どうやっていったらいいのかわからなかったんですけれど、僕らが向かっていくに大きな相手で、これを是非やりたいと僕と小宮で話が盛り上がりました。村石も周りの注目を集め、手を差し伸べてもらうことでやる気になりました。そこからは3人で飲んだり喧嘩したりしながら共同で企画を進めていきました。
村石: そのブライバシーのことですが、撮影期間中ずっとその葛藤はありましたし、親たちの方からプライバシーをさらさないでくれ、やめてくれと何度もいわれました。僕自身もこんなことをして家族のためになるのか、いけないんじやないか、そういう葛藤はずっとありました。ただ、僕には自分の問題をのり越えていくためには、カメラを通して、映画づくりを通していくしかないという確信があってぶつかっていきました。でも最終的には親たちも納得してくれて、今はプラィバシーについての問題は特にありませんし、結果的にうまくいったと思っています。
佐藤 : 茂野くんはその時どうかかわっていこうと思いましたか?他人の生活に介入していくのだからかなり難しいものがあったでしょう。
茂野: ええ、最初はまあ断られるだろうなともちろん思っていたんですけれども、ご両親と接してみて、はじめは村石の話しか聞いていなかったので、落ちこんだ時の村石の話を聞くと、これは相当にひどい親だなと僕らも思っていました。ところが行ってみるとそんなことは全然なくて、むしろ親御さんの方が一生懸命気を使ってくれていろいろ冗談なんがいって話しかけてくれているのに、村石の方が一人でスネテルという感じで、僕たちスタッフと家族の間だけで会話がすすんでいるというような状態でした。そこでハタと気がついて、自分たちはこれまで脚本をねってきたけれど、これからこの人たちを苦しめることになるのは当然分かっていましたので、そんなことをしていいのか、という問いかけはずっとありました。
それでもどうして僕らが撮り続けたのかと言われると非常に困る質問です。その時の気持ちを正直に言いますと、もうヤルしかないんだという一念だけでした。
で、まあ、恐い話なんですが、僕らの目の前で家族が本当にバラバラになるんじやないか
と思う時がありまして、そんな時自分たちのヤッていることの大きさとか、自分たちのせ
いで家族がバラバラになったらどうしようかと、小宮と相当言い合ったこともありました。
ただ、最後にこういう結果になって、ご面親が映画の公開までOKして下さったのは、自
分たちが苦しくても、息子のためという一念で承諾してくれたんだと思っています。
佐藤 :本来これは親子の間題だから親子の間で話し合って解決するのが常識だと思うんだけど、実際問題見ていてそれは不可能だったろうという気がしますね。敢えてそのプライバシーに介入していくものがいたということ、こう言い切ってしまっていいのか分からないけれども、カメラとマイクがあったからこそだという気がしますね。カメラとマイクというのは個人の問題を公開する道具でして、個人を公にさらすという性格をもっている。 そして、半ば公的な存在になる。ま、そう言えるか分かりませんが。公的な存在になるこ とを覚悟した時度胸がすわるということがある。親と子の問題だから親と子が内密に話し 合う、これが常識なんだけど実際にはそういうことは起こらない。親と子は話し合えない から親と子なんであって、ところがこの作品では人前で正直に言って恥ずることはないと 度胸を決めないと話せないようなことを皆さん話していらっしゃって、意外というと本当 に失礼ですが、親たち三人はいずれも正直でまっとうな立派な人たちだったという、息子 にもそれまで分からなかったことが分かってくる、というのがこの作品のひとつのサスペ ンスというかスリルになっていて映画として成り立っているわけです。
カメラとマイクで他人のプライバシーに入っていく時、そのカメラとマイクを持った人
間は一体どういうことを考えているのかな、ものすごく見事なカメラワークがありますね、
時々ね。義理のお父さんを問い詰めていった時に、最初お父さんは背中を向けて相手にし
ないんだけれども、どんどん問い詰めていくと開き直って喋る。その時、カメラが全然別
なところを撮っているね。そんな時カメラを操作するわけにいかないだろうけど、全然関
係ないところが映っている。しかしお義父さんがやおら向き直って、人生の貫禄を見せて
重要なことを言い始めた時、クローズアップになるね。あんなカメラワークは実に絶妙だ
と思うんだけど、あれは計算してはできないでしょ。あれはだれが撮ったの?
村石: 僕です。
佐藤 : じゃああれは第三者を入れないで撮ったわけ?
村石: はい。
佐藤 : でも、普通の、他の場面はカメラマンがいるわけでしょ?
村石:僕が撮ってるのは、父親との対話場面、あと母親と自分の性生活の話をカミングアウトする場面です。
佐藤 : 他の場面は?カメラの撮り方の指定なんかは相談しながらやったの?他のスタッフは…。
村石: 結構みんなでカメラをもって撮っています。トータル五人くらいがその場その場で回してます。
佐藤 : カメラは何台で?
村石:2台です。ただ、母親へのカミングアウトの場面と、義父と喧嘩みたいになる場面は二人きりじやないと撮れないと思ったので、僕一人カメラを持って、二人だけで話ができる状況をつくって撮りました。
佐藤 :その時、この映画はこう撮らないとまずいとか、こういう風に準備しておかなければいけないとか、今が狙った瞬間だからここでカメラを動かそうとか考えるわけだろう。それまで考えていることと、その時は非常に深刻な話があって、あまり冷静な状態ではないと思うんだけれど、そこのところはうまく処理できるもんなの。
村石: こう撮ろうと、いろいろ考えていくんですけど、実際は考えていたとおりになっていません。義父が背中を向けてしまう場面も、僕が肩の入れ込みくらいで、二人が面と向かっているところを撮りたかったんですけど、「お義父さん話しよう」とカメラを向けると背中むけちやうんですよ。で、しょうがないから背中むけてるインタビューなんかないし、こりや困ったなと思ったんですけどその場で回して、その時お義父さんがいきなり立ち上がるなんて全然考えていませんでしたから、もう、とっさに撮ったというか…。
佐藤 :じゃあカメラはそこに置いといて操作したわけ。
村石:はい。
佐藤 :映画をつくるという意識と、親子の徴妙な問題を深刻に語り合っているという実際の状況があるわけだけれど、そこのところでうまく頭は切りかわるものなの?
村石: なかなか難しいですね。そこをうまく切り換えないと流されちゃうんですよ。どうでもいいような、日常的な話に流されちゃって…。でもカメラが回るとここはしっかり言わなくっちゃいけないんだとか、ここはちゃんと問い詰めなければいけないんだという意識が生まれてくる…そんな感じでやってきました。
佐藤 : ご両親をはじめ皆さんは正面きったキチンとした話をなさっているね。我々の日常会話というのはいい加滅なものなんだが、映画では非常に筋道のたった話をキチンとしている。撮り直しとかはあったんですか?皆さん普段はそういう話はしてないでしょ。普段してなくてああいう風にキチンと話せる人たちであったということは予測できた?
村石:できませんでした。普段話してなかったということ…僕が実家にいたころは親と全然対話してなくて、僕はずーっと部屋に閉じこもっていたし、親は親で勝手にやらせました。そういう風にしてしまったのは僕の弱さだったと思います。これじゃいけない、親とちゃんと話をしなければいけないんだと思った時、カメラのカを借りて、何とかやれたという感じです。
佐藤 : 私がこの作品から感じたことは、この作品に限らず、こういうタイプの映画から感じるのは、カメラというものが非常なカを発揮する場合があるということ。その発揮するというのはただ何か見えないものが撮れたというんじゃなくて、カメラがいるから撮られる人が普段しゃべらないことをしゃべる、そういうカがカメラにあると思います。どこかで誰かが、カメラやマイクがないと話し合 いもできないほど今の若い人はひ弱なんだ、と言ってたけれど、私はそれは違うと思うな。 本来、親と子というものはそんなに真実を語り合うもんじやないし、普通に語り合えたら かえって気味が悪い。しかし、親と子が、ある時正面きって語り合わなければならないと いう場合がある。それをどうやったら設定できるのか。現代ではカメラとマイクというメ ディアが思いがけずカを発揮するという発見があったという点で興味深かったと思います。
茂野: そうですね。家族のものをやろうと決めた段階から、私も村石、小宮もそういった文献を読んだり、それを扱った映画を見ました。そうして考える時一番大事だったのはこれらの既製のものじゃなくて、私たち三人の体験、私たち自身の家族の問題を村石の問題にあてはめて考えました。結局最後に行きついたのは自分たち自身の体験だったと思います。たまたま村石が大きな壁にぶつがっていて、あとの二人はいろいろあったけど、まあ、親と折り合うというところまできていた。でも村石は一度も親とぶつかっていないし、自分の言いたいことも言わないでここまできちゃって、こじらせてしまったので、じゃあ
これを機に村石にやってもらおうかな、ということになりました。
佐藤 :村石くんの場合は普通でないといった感じは否定できないと思うけれども、しか
し、親と話し合えないというのはきわめて当り前であって、だれでも経験していることで
すね。したがって、このテーマは決して特殊なテーマではないと思いますね。特殊でない
だけにアプローチのし方としては余程オーソドックスにというか、奇を衒わずにキチッと
やらなきゃならない。この作品に限らず、ドキュメンタリーでは、いやな言葉だけれどヤ
ラセということが絶えず言われていて、この作品があまりにうまく、劇映画のように進行
していくので、そこに何か作為があるんじゃないかと言う人があるかもしれないんだけれ
ど、その点はどうですか?
茂野: 作為ということですが、僕ら自身はいわゆるヤラセ的なことはないので、作為もなかったと思います。ただ、一部でそう言われるかもしれないということは、あらかじめこの映画の狙いとしてあった。僕らはもともとはドキュメンタリー志望というほどのものではなくて、たまたまドキュメンタリーゼミに入ったのでドキュメンタリーの形に対するこだわりや思い入れはなかったと思います。それで、劇にしろドキュメンタリーにしろ映画は映画なんだから、という自由な発想で無知のまま恐いもの知らずで飛ぴ込んでいきました。その結果がこういう作品になった。卒制発表会を見にきてくれた僕の友達も途中まで劇だと思っていたらしくて、ずい分役者が下手だなと言ってましたから、あれは実際の話だと言ったら工ッと驚かれました。映画も僕らが計算してというより、狙いでドキュメンタリーとドラマの境界を行きたいというのがありましたので、それが出たのだと思います。
佐藤 :例えば、実の父親に終わりの方で会う時、父親が財布の中からまだ二、三歳のころの子どもたちの写真を取り出しますが、あれは劇だったら見事な、大メロドラマのクライマックスにもなるような実に効果的なシーンでしたが、あれは偶然持っていたの?
村石:はい、いつも持っていると言ってましたけど…そうだと思います。それをあの時に見せてくれたんだと思います。
佐藤 :そういった場面がいたるところにあって、例えば父親を殴るところっていうのはあらかじめ打ち合せはしてないの?
村石: 直前に…演出家がうるさいので……。今日は何撮るんだ、何するんだ、と言うので、『親父殴ります』と…。
佐藤 :やってみてどうですか?でき上がった作品を観て君たちはどう思っていますか?
村石:最初は分からなかったんです。自分がやったことが正しいのかどうか。でも、いろんな人に観てもらって、いろんな人に理解してもらったり、よかったよと言ってもらったりして、今、僕は自信をもっています。やれることをやってよかったなと…。
茂野: 村石の言った通りです。もち論僕らはベストを尽したんですけど、全く僕らの予想を越えて、村石のご両親や登場した大人たちがすごく魅力的なところを見せてくださって、はっきり言って今の僕らのカを越えた作品になっていることは確かだと思います。
佐藤 : いや、君たちの力を越えたっていうよりも、君たちに限らず若い人は大人の世界なんか高が知れていると思い込んでいるところがあっで、しかし、本当に真っ正面から大人の世界を叩いていけば、意外とチャンとした人たちなんだということを発見できるということなんだね。君たちはこの作品でそれをみつけることができたので、ご面親も相当嫌だったろうけれど、満足してくれたんだろうと私は思います。
茂野: もとは53分だったんですけど、終わった時点で村石の家族の葛藤は解消されたわ
けです。それで卒制版もいい作品になったんですが、僕が見直した時、もっと直したいと
いう気持ちを起こされるシーンがかなりありました。それは具体的には村石の子ども時代
の体験、村石の親に対する想い、それらが卒制版では一言二言で語られただけで済まされ
てしまっていた。それはいろんな制約や自分たちの力不足のためもあったんですが、それ
を今回何とか表現したい、それがなかったら村石が一生懸命親を責めていったこともすべ
てただ彼のわがままに見えてしまう。それは僕らとしても非常に残念だ、それがまず一点。もう一点は、今観ていただいたように義埋のお父さんがとにかく魅力的な方なので、卒制
版を上映したあとに必ず出てくるのが、義理のお父さんは何であんなに寛大なのかとか、
義理のお父さんのことをもっとよく知りたい、背景はどうなってたんだろう、そういう意見が非常に多かったんです。僕らは卒制ではあえてそこに触れないようにしたんですけれど、やはり徹底的に描き尽したいという気持ちがありまして、その二点、何とか撮りたいと思いました。そして何より大きかったのは、す
ごい迷惑をかけたわけで、それを卒業制作版 で終わらせるのは許せない、自分で自分を許
せない、そのためには劇場公開版としてしっ かり結果をだしたい、それが僕らの大げさに
いえぱ使命というくらい思いました。卒制版 のあと、いろいろ反対の声もありましたがこ
れをふりきって、追加撮影をして劇場版にし ました。
佐藤 :特に重要だったのは義理のお父さん
が自分の差別体験を語った場面で、それはあ とから撮ったものですね。それはそのことを
話してくださるという予測がついてたんです か。
茂野: 追加撮影を続けるという段階で、当
然村石を通してご両親にこういうことを撮り たいんですがという話を伝えました。ところ
が追加撮影の時何より問題だったのは、ご両親の方にカメラに対する恐怖が強くなってし
まいまして、初めはいいよ、いいよって感じ だったと思うんですけど、いざカメラを向け
られてみるとやっぱり苦しくて駄目だという 状況がずーっと続きました。最初は撮らして
いただけるんだろうなあと思っていたんです が、本当に最後の最後までどうしようかなと
いう状況が続きました。
佐藤 :卒業制作版ができた後で、まだあと を撮りたいと言ってきて、何を撮るんだと聞 いたら、部落問題というのは難しいでしょう か、と言うから、いや−、部落問題というの は難しいよ、安易には手はつけられないよと えんえんと言った覚えがあるんだけど、やっ ぱり必要だったわけですね。
茂野: 僕はNYU(ニューョーク大学)の映画祭でイタリアヘ行きました。
佐藤 :そこでの反響はどうでした?
茂野: そうですね。海外の映画祭で、最初はこんな日本の話が分かってもらえるのかな、というのが正直なところだったんです。けれど、上映が終わるとものすごい反響でした。全然予想していなかったんですけれど、向こうの人は結構反応がはっきりしているので、何か立ち上がって〃ウォー〃とか言われて、はじめはブーイングかなと思ったくらいでした。でもみんな感動してくれて、終ったあとコングラチュレーション、みんな、おめでとう、おめでとうと集まってきてくれて、非常に感激しました。
佐藤 : 村石君くんはどこか行ってないの?
村石:行ってないんですけど、明日ドイツのマンハイム映画祭に行きます。
佐藤 :それはマンハイムではどういう扱いになってるの。
村石:学生映画ではない、一般劇場映画のドキュメンタリー部門への参加です。
佐藤 :じゃあ、正式出品ですね。
村石:はい。
質問者1:横浜で学習塾をやっている者です。村石さんの親の世代と全く年齢が重なっていますから、自分の場合あれだけ開き直れるかと思い、非常に衝撃を受けました。質問ですが、先程の話にあった、他にカメラマンを入れないで撮るという判断、そこにはスタッフ間にも葛藤があったと思うんですが、その辺のことをお聞きしたい。
村石:一人のカメラマンが最初から最後まで撮るという態勢ではなくて、僕らのチームは人数が少なく五人だったので、自分たちで撮れる画を撮っていかないとできない状態でした。一人のカメラマンを決めて撮るより、いろんなやり方が試せてよかったと思います。やはり僕と父親とか僕と母親とかの二人だけでないと作れないムードがあって、そこにだれかが入っちゃうとなかなかムードづくりってできないんですよ。ついスタッフの人に話しかけちゃったりもするし、僕が話しかけて
も逃げてしまうこともあります。だから父親との対決というか喧嘩する場面では、僕が一
人で撮ってくると言って、やりました。
茂野: 周りで作っていた方から言いますと、村石の言った通り最初はカメラマンもいまし
て、もち論正式なカメラマンではなくて僕が撮ったり小宮が撮ったりしてたんですが、そ
れはオーソドックスなスタイルで臨みました。僕らは撮影を始めるずっと前の夏くらいからご両親の家に行って交流を深めようとはしていたんですけれども、それは所詮他人ですのでいくら努力しても卒制の期間で向こうが心をゆるすことはほとんどないだろうというのが僕らの判断でした。しかも撮ってきた素材はどれも他の人やカメラを意識した動きで、
自分の子が来ていればご馳走をだすとか、村石が真面目な話をしようとしてもスタッフと
ジョークを言い合ってしまったりとか。そういうわけで撮れてきたものが僕らの狙ってい
たものと全くほど遠かったんです。じゃあどうすれば家族というものをチャンと映像として撮れるのかと考えたとき、こりゃ僕らは出ていくしかないな。ま、悔しいのは確かですがこれはやっぱり村石一家の話なので、彼にまかせて、家族と一対一で撮ってきてもらおうと…。これは一つの試みだったんです。そうしたところが撮れてきたものを見てビックリというか、やっぱりこれだよと納得させるものがありましたので、その後は本当に重要な撮影については彼が親と一対一でやっていただきました。
佐藤 :どなたか他に質問のある方は…。
質問者2:自分が子供の時って、親は親という生き物だっていうイメージでずっといるけ
ど、だんだん自分が大人になっていくと、ああ親も人間なんだということに気づいてくる
ということがあると思うんです。村石さんは、この映画を撮り終った今、自分に子供ができたらどんな風に接していこうと思いますか。
村石:僕は、映画をつくる前は、親のことを知らなすぎたんですよ。勝手に自分の中で、
親は裏切っていると、自分のこと嫌いなんだとか、そういう偏見でいっぱいになっていま
した。それが、親のいろんなところを見せてくれたのがこの映画だったと思うんです。親
を人間として見られるのか、そこまで強くないです、まだ僕は。いろいろ頼りたいし、ま
だまだ親にすがりたいという気持があります。
質問者2:じゃあ、まだ、親は親という感覚は残ってますか。
村石:少し残っています。僕なりに努力はしてますが…。
佐藤 :他にどなたか質問はございませんか。
質問者3:大変面白い映画をありがとうござ
いました。面白いという言い方は適切ではな いかと思うんですが、初めはあんまりよくで
きていたのでヤラセがあるのかなとか、こう 言ってほしいと頼んだのかなと思いました。
そして、これは質問じゃないんですが私の感 想ですが、ヤラセではないというので本当に
ビックリしてます。親ごさんたちがすごく頭 がいい人だと思ったのと、それから義理のお
父様はもう人間としてすごいなあと思いまし た。その点で村石さんは義理のお父様に対し
てどういう風に今思ってらっしやるのか、お聞きしたいと思います。
村石:あの、さっきの追加撮影で撮った部
落差別を語る場面なんですが、あれを語るの は本当に父親としては苦しかったと思うんで
す。で、何故語ってくれたのかといったら、 僕だけじゃなくて周りのスタッフの熱意に応
えてくれたんだと思います。あの場面に関してはもう単なる親と子の関係じゃなかったん
です。僕らスタッフ全員に向かって話をして くれた、僕はかえってヒヤヒヤしながら見て
いた、お義父さんは本当によくやってくれた なと感謝しています。さっきの質問ですが、
あの場面に関しては、お義父さんを人間とし て見れたと思ってます。
質問者3:私は、お義父さんが小学校一年生
のときにすごい差別を受けて、そして家を飛 び出して一人で生活して闘ってきた、それか
らももっともっとすごい経験もあったと思う んですね。そして、あの年齢になられて、考
えてらっしやることがみんなを包み込む、そ ういう人になっている。あんまり素晴しくて
涙が出ました。
佐藤 :私が自分の学校の作品を褒めるとい うのも面映ゆいんですけれど、これはやはり 稀にみる傑作だと確信をもっております。何 とか劇場公開を成功させたい、国際的にもい ろいろ押し出していきたいと思っておりま す。みなさんの御協力をお願いいたします。 どうもありがとうございました。