ゲストトーク
伝説の映画はこうして作られた
司会(大西):ただいまより、佐藤純彌監督をお迎えして、ゲストトーク「伝説の映画はこうして作られた」を行います。映画はいかがでしたでしょうか?まさに「伝説の映画」ということで、皆さん迫力に圧倒されたと思います。前の方をご覧いただきたいんですが、新幹線の座席を手配しようと思ったんですが、なかなか難しかったんです。それで、小田急電鉄さんの大変ありがたいご協力を戴いて、新幹線に負けず劣らずのふわふわなクッションと、かなりセンスのいいカラーの「ロマンスカー」の座席で、今回のトークを行いたいと思います。 では、さっそく今回聞き手を勤める映画評論家の門間貴志さんと、佐藤純彌監督をお迎えしたいと思います。大きな拍手でお迎え下さい。門間さん、佐藤監督、どうぞ。 (会場拍手) 司会:門間さん、佐藤さん、宜しくお願いします。
門間貴志氏(以下門間):こんばんは。たぶん、日本一映画評論を書いていない(笑)評論家の門間と申します。今日は皆さん映画をご覧になった後なので、監督から映画制作秘話をいろいろお聞きしたいと思います。 皆さんはもちろん、ヤン・デ・ボン監督のアメリカ映画「スピード」を観たことがあるかと思うんですが、あの映画はほとんど(新幹線大爆破と)同じアイデアを使っているわけです。ですが、そのはるか20年以上前、1975年に、日本ではこのようなアクションサスペンス映画がすでに撮られている。これは当時、いや今もかなり高水準、世界最高水準のアクション映画だと思っています。 ちょっと簡単に当時の状況をざっとご説明しますと、70年代の中頃というのは、ハリウッドは「エアポートシリーズ」「タワーリング・インフェルノ」「サブウェイ・パニック」など、パニックものの映画が流行っていたわけです。で、(パニックものは)非常に大掛かりな仕掛けが必要で、予算がかかる映画で、日本ではなかなか撮られてこなかった。日本で当時のパニック映画というと、「日本沈没」とか「大地震」とか、非常に終末的な暗い映画が多かったんですが、そこにこの「新幹線大爆破」という対抗馬がパッと、燦然と登場したわけです。これに追随する日本映画は実はなかなか出てこなくて、このジャンルでは唯一の作品かな、という気がします。ではさっそく、監督にこの映画の出発点といいますか、アイデアの発端とか、そのへんから伺いたいと思うんですけれども・・・。 佐藤純彌監督(以下佐藤):これを最初に企画したのが、今は東映の東京撮影所所長を兼務している坂上順というプロデューサー─最近は「鉄道員(ぽっぽや)」「ホタル」をプロデュースしている人ですけれども、彼がある日「『新幹線を止めると爆破するから、止められないで…』という様なサスペンス映画を作れないか?」という話をふと、言い出した。それでそういうサスペンスも面白いなと思って、どうやって調べようかなと思ったら、東京・駒込の六義園の裏の方に、鉄道の教則本とか、いろんな本を売っているところがあるんですね。そこへ行ったら「新幹線運転規則ナントカ本」ていう、学校で使う、新幹線の運転手を養成するための教科書があった。それを買ってきていろいろ考えたら「ああこれは確実にできるな」ということで、そこから取り掛かったわけです。 もうひとつは、僕が助監督時代にいっぱいいろいろついた関川秀雄さんという監督がおられます。「きけ、わだつみの声」という名作を撮られた方ですけれども、その方のお兄さんだったかお父さんだったか?忘れてしまいましたけれど、この方が新幹線の設計に関わった「七人の侍」と言われていた、その一人だった。当時は北海道の国鉄の総局長をされてましたけれど、そこに行っていろいろお話を伺ったりして、始めたんです。 どうしたって国鉄の協力がないとできないんで、国鉄の方に行ったら…当時1970年代前半というのは学生運動が沈滞し始める時代で、しょっちゅう「爆弾をしかけた」という電話がかかってくる、と。たとえイタズラ電話だとわかっていても、国鉄としては必ず最寄駅に列車を止めて、全部調べなければいけない。「だからそのような映画を作られては困る。一切協力はしないし、作られても困る」という話だったんです。でも、東映の方でどうしてもそれをやろうということになったのは、当時東映ではヤクザ映画が全盛で、約10年続いて東映を支えていたんですけれど、それが学生運動の衰退とともにヤクザ映画も流行らなくなってきた。で、新しい映画の方向を何か見つけよう、何か新しい映画が作れないか、ということでこの企画が取り上げられ、それを進めることになった。ま、そんなところが出発点だったということです。 門間:さすがに国鉄としては爆弾の映画はまずい。ということであれば、新幹線のいろんな撮影は、例えば、盗撮なんですよね? 佐藤:(笑)実際に走っているところは、「絶対に線路の3メートル以内には近づけさせない」とか、いろいろそういうのがありまして。 門間:じゃ、撮る分にはいいわけですか? 佐藤:いや当然、国鉄の敷地外から撮れば別に国鉄としては文句いえないわけですから。 門間:撮影の情報があると職員が集まってバリケード組んで阻止するとか、そういうんではないんですね(笑)。 佐藤:ええ、そこまではいかなかったですけどね。ただスクリーンプロセスをずいぶん使いましたね。それは普通、乗って撮らなければいけないんだけれど、当然許可にならないんで、ホントに隠しカメラでカバンの中に仕込んで撮ったり…。それからミニチュアを作ったんですが、それもいわゆる常識的なミニチュアじゃリアリティが出ないということで、一両約1メートルぐらい、で、12両編成ですから12メートルぐらいの大きな新幹線を作りましてね、それを撮影所の裏のオープンに約150メートルぐらいのレールをつくってそこで走らせたんです。 撮影の時に、当時日本では使われていなかったシュノーケルカメラというのを初めて使ったんですよ。シュノーケルカメラってのは、今はもう当たり前で、そんなもんことさら言うことじゃないんですけど、普通の大きなカメラを逆さまにつるして、その先にミラーをつくって、つまりこういう狭いところでも撮影ができるようなカメラ。当時日本には2台しかなかった。それをアメリカから借りてきて撮影したり…。 門間:そのカメラは、レンタル代が高いと…? 佐藤:そっちの方のお金のことは、実は監督というのは知らない(笑)。「要る」と「使う」ということだけで、あとのお金のことはプロデューサーが苦労する、という…。幾らぐらいかかったのかわかりませんけれども。 門間:資料によりますと、1日100万円かかったという。 佐藤:あ、そうですか。 門間:当時の100万円というと、今でいうと1000万ぐらい。 佐藤:そうですね。ま、1000万まではいかないかも知れませんけど、やっぱり大変なお金だと思いますね。確か総予算が3億ぐらいかかっていると思いますけれど、そのうちやはり100万円でひと月ぐらい使ってますから、ほぼ1割、カメラ代にかかっちゃったということですかねえ。 門間:今の3、40億ぐらい、ってことですかね。 佐藤:いやそこまでいかない、20億ぐらいだと思いますけど。 門間:このシュノーケルカメラは2年後に「スター・ウォーズ」で使われたと聞いてます。「スター・ウォーズ」よりも早くこちらが使っているという、そういうカメラでなんですね。…協力が得られない、ということになれば、例えばコントロール室とか、新幹線の車内とかはどうやって再現なされたんですか? 佐藤:ま、これはあんまり大きな声で言えないんですけど…(笑)。コントロール室というのはもちろん僕達は入れてもらえなかったんですけれど、実は国鉄は、外国人に弱いって。「外国人なら(入っても)いい」と、鉄道関係者が。それで、日本で無名の外国の俳優をドイツの鉄道関係者に仕立てましてね、それでデザイナーを案内役にしまして。それで全部盗み撮りしてきましてね(会場爆笑)。 門間:写真でですか!?隠し撮りで? 佐藤:ええ。それで新幹線の車内は、日立製作所とか東芝とか、(実際に)作ってるところからそれぞれ全部の部品本物を買ってきまして、それを組みたてたんです。あとで各会社が全部、国鉄から怒られたらしいですけど。 門間:当時、セットに使った新幹線を展示していて、子供がその展示を観に来ている映像をテレビで見たことがあるんです。そこに実際座って写真が撮れるという…。 佐藤:ええ、セットにずっと組みこんでおきましてね。実際にその後5年ぐらい、新幹線の車内といえばそれを使ってましたから、結構元はとれたと思う。 門間:あ、レンタルしたわけですね? 佐藤:ええ、どこかの撮影所もずいぶん借りにきてたりしてました。何といっても全部本物使ってたわけですからね。 門間:そうですよね。で、それは結局、国鉄とは訴訟問題にはならなかったんですよね? 佐藤:ええ、別にならなかったですね。ただ、当時東映は教育映画とかテレビで「鉄道保安官」とかやっていたり、国鉄のPRをずいぶん撮ってたわけですが、3年間、出入り禁止になったみたいですけど(笑)。 門間:(笑)ああ、何か、大川社長(※大川博・東映社長、当時)も…? 佐藤:ええ。大川さんはもともと国鉄出身で、たいへん東映と国鉄は(つながりが深く)、…たぶんご覧になってる方少ないと思うんですけど、「大いなる旅路」という国鉄の機関車の運転士の話を撮ったり、国鉄から表彰を受けてたりしたんですけれど、それも3年間、ダメだったらしいです。 門間:出入り禁止ということですか? 佐藤:はい。 門間:なるほど。まあ、似たような話は戦前にもあるわけで、例えば東宝が1942年に「ハワイ・マレー沖海戦」という、真珠湾攻撃の映画を作りました。「パールハーバー」っていう映画がありますけど、あれをもうやっているわけですね。それで、海軍がそれを(東宝に)作れっていうんですが、一切資料が出てこない。つまり、軍の秘密だから、軍艦の形とかは何も教えられない。で、想像で作った。仕方がないからアメリカで買った「ライフ」っていう雑誌を手に入れてきて、そこに映ってる戦艦を見てつくるわけです。ところができた映画を観ると、日本の戦艦じゃなくてアメリカの戦艦になってて、そうとうそれが軍部で問題になった、ということを聞きました。ま、これは国鉄が「作ってくれ」って言ったわけじゃないですけど、そういう苦労はいつの時代でもあるんですね。 佐藤:そうですね。まあ、映画の質というか、「本物」にこだわるか、あるいは別の「おもしろさ」とかにこだわるかという、作り手の姿勢にもよると思いますけれども。話そのものが現実のリアリティを背負ってやらなければいけないと思っていたんで、なるべく本物にこだわったというのがあります。 門間:これは僕が中学生ぐらいの時に観たんですが、個人的な記憶ではヒットしてた気がするんですが、実際のところ、失礼ですが、収支的には・・・? 佐藤:実際はですね、実は封切の2日前に完成したんですよ。だから試写をするひまもないし、もうギリギリで封切ったんです。というのは国鉄が、許可する、しないでエンエンと二ヶ月ぐらい遅らされたもんですからね。 門間:上映自体の許可ですか? 佐藤:いや、撮影の。そのためにクランクインが遅れた、ということがあったんです。それで、宣伝も行き届かず…。それからあとから考えたんですけれど、「新幹線大爆破」という題名そのものがあまりにもリアルすぎたのか?…実は封切りの時は、赤字・黒字のギリギリだったんです。それがたまたまフランスでその年の暮れに大ヒットしまして、それで日本に逆輸入する形で…。それも今もってまだ映画やビデオ、DVD、映画祭であちこちやっていただいたりして大変幸せなんですけど、27〜8年前の映画からそれ以上のものをつくれない僕は恥ずかしいのと、悔しいのと、両方ありますけれども(笑)。 門間:いやいや、またつくって下さい(笑)。
門間:で、フランスでヒットしたという話が今出ましたけれど、フランス版というのは、このオリジナルより短いんですね。どこが短いかというと、「犯人の動機に関わる部分」が一切ないわけです。左翼のこととか、日本のいろんな事情は、外国人に判りづらいわけですよね。そういったものをはしょっちゃって、単純にサスペンス物として売り出していったわけです。で、外国で公開されたときのポスター、これが膨大にあるわけでして、一説によると100ヶ国ぐらいあったという…。フランス版は「スーパー・エクスプレス109」ですね、ドイツ版は「パニック・イン・トーキョー・エクスプレス」。東京じゃないような気もするんですけどね(笑)。「パニック」のスペルはドイツ語ですからCじゃなくてKなんですね。インはINじゃなくてENと書いて「トーキョー・エクスプレス」。それからメキシコ版は、パニックじゃなくて「パニッコ」…と、膨大に公開され続けたんですね。 たぶん、同じバージョンが世界中を廻ったんだと思いますが、おそらく、ヤン・デ・ボンが観たのはこの外国向けの、高倉健さんのいろんな苦悩が全く抜け落ちたバージョンを観たんではないかと。だから、ああいう「スピード」みたいな映画になっちゃった。つまり、犯人は悪いんですね。ヒーローが悪い敵を倒して、スカッとする。アメリカってそうですよね。白黒はっきりした映画。で、オリジナルは白黒の映画じゃないんですね。別に宇津井健さんがヤッター!っていう映画じゃないんですね。宇津井さんが何でか分かんないけど辞表出しちゃうんですよね。誰も止めないのがかわいそうだなーと思って観てたんですけど(会場笑)。で、誰もがあまり幸せじゃないまま終わっていく…。ちょっと、この重さは日本的かなーと思ったんですけど、やっぱり1975年という時代背景はそういう感じなんですかね?学生運動の余波があったりとか…。 佐藤:そうですね。一言であの時代をくくると「挫折」という言葉でくくれるのかも知れませんけどね。映画のあとノベライズ化されましてね、世界で16カ国ぐらい翻訳されまして。それで、出版社がそれぞれ、ドイツ語版とかフランス語版とかメキシコ版、スペイン語版、いろいろ送ってきてくれまして。もしかしたらヤン・デ・ボン・はそのノベライズされたのを読んだのかも知れませんね。 門間:なるほど。オリジナル版は普通に観ると、高倉健さんが主人公なわけですよね。犯人だけど、我々が感情移入して、つまり健さんに同調的に観るわけですけど、そういう背景が全部ないということは、おそらくその海外版というのは、群像映画みたいな感じだったんでしょうかね? 佐藤:あの年のあれ(公開)が6月か?夏だったと思いますけど、9月か10月のロンドン映画祭で上映されまして、「ベスト・アウトスタンディング・フィルム・オブ・ザ・イヤー」だったか、何かそんなのをくれたんですよ。だから、ロンドン映画祭ではオリジナルが上映されたみたいですね。 門間:監督はフランス語版、短縮されたバージョンは観てらっしゃらない? 佐藤:いや、観てないんですこれが。 門間:というか、編集したわけではない? 佐藤:全然もう、向こうが全く… 門間:勝手にというか・・ 佐藤:だいたい外国で配給会社が編集しなおす権利を一緒に買うみたいですね。 門間:当時フランスでヒットしたというのは結構話題になりまして、東宝が何を考えたか、これをまた輸入してしまうんですね。フランスの吹き替え版を輸入して、それに字幕をつけて上映したことがあって、それも観たんですけれど、なんか、凱旋上映みたいで(笑)。のっけから健さんが「ボンジュール」とか言うんですよね(会場笑)。管制室の宇津井健さんが「大丈夫か!?」とか言うときに「サバ?」、千葉真一が「ウィ」とかね。全部フランス語に吹き替えてあって、ちょっとねえ。あ、山本圭さんは違和感ないですね。「ボンジュール」って言っても何か、パリ帰りって感じでしたね(笑)。 佐藤:(笑) 門間:では、ぜひこれはスペイン語版、ドイツ語版、上映は無理にしてもDVDが出る?まあ出さないと思いますけど…もしドイツに行かれる方がいたら探してみてください。
佐藤:はい。 門間:どう思われますか? 佐藤:(沈黙)…本音を言いますと、「よくまああそこまで真似てくれて、ありがとう」という気持ちだったですね(笑)。 門間:これは、別に東映が文句言ったりとか、そういうことはないんですね? 佐藤:まあ、ホントに裁判おこしたら、多分勝つと思いますけどね。 門間:それをちょっと懐大きいところをっていう…。 佐藤:ええ、当然ね。でもまあ、そういう気概も気持ちもなかったみたいですけど、東映には。アメリカで裁判を起こすという、そういうような面倒くさいことは…。 門間:でも、マカロニ・ウエスタンを、クロサワの映画をパクったなんていって、確か裁判になったことありましたよね。 佐藤:そうですね、あれは黒澤さん勝ちましたけどね。「荒野の七人」は「七人の侍」そのままだっていう…。あれはもう完全に、まさにそのまま置き換えただけですからね。今度の場合はアイデアを戴いているという感じですから。 門間:でも映画って、古い映画のアイデアを借りて新しい映画になっていく、っていうのが普通にあるわけですよね。 佐藤:ええ。映画だけじゃなくて小説にしても、特に有名なモリエールというフランスの戯曲家は、当時から「盗作家」って言われたぐらい、他の人の作品をうまくアレンジして直すことで有名だったみたいですけど。だいたいやっぱり、あるヒントなりアイデアをさらに大きく膨らましたり別の形にするということは、あまり目くじらを立てるほどのことでもないと、僕は思っております。 門間:逆に膨らんで良いものになれば、それはそれでアッパレっていう感じなんですかね。 佐藤:そうですね。 門間:日本の映画も実は、たぶん裁判やったら負けるのがいっぱいあると思うんですよね。例えば石原裕次郎の「夜霧よ今夜も有難う」は「カサブランカ」と同じストーリーで、なぜ訴えないかというと、「カサブランカ」を作った人が誰も観てないからですね。渡哲也も「勝手にしやがれ」のリメイクを勝手にやってるんですけれども…。まあそうやって映画っていうのは、国から国へアイデアが伝わってグルッと廻ってくる感じですよね。東映のヤクザ映画も香港のジョン・ウーが真似して、それをまたタランティーノが真似して、それをまた日本も小沢なんとかってのが真似して…って。映画に限らず、アイデアって廻るものですよね。 ちょっと脱線しますが、3年ほど前に、韓国で日本映画のリメイクという問題が起こりました。古い60年代の日活映画とかを(韓国が)どんどんリメイクしちゃう。リメイクっつうかパクってるんですよね。でも日本人は韓国映画を観ないんで分からなかったんですが、最近の若い人がそれを発見して、当時出ていた往年の女優を呼んできて観せる。それで驚くわけです。それで、その(問題を扱う)番組に実は僕、呼ばれたんです。日本人の側から何か言ってほしいと。で、はっきりいって怒ってほしい番組だったらしいんですね。「日本人は怒ってるぞ」と。それを僕が、「どんどん真似していいんじゃないか」って言ったら、1秒も使われなかったんですね(会場笑)。ギャラだけもらいましたけれども…。ですから、この「アイデア」っていうのは、元のアイデアが素晴らしいから他のリメイクが生きるってことで、僕はホントに元のアイデアの素晴らしさって面白いと思うんですが。…また外国での話に戻りますが、中国では、最近までこの映画は禁止だったっていうことですよね? 佐藤:ええ、やはり模倣犯が出るということで。国鉄もつまりは模倣犯が出るから作らないでくれということだったんですが、中国もそういうことだったらしく。中国にはずっと映画学院というのがキチっと、いっぱいあるんですけれど、そこでの研究の内部資料という形ではずいぶん上映されてるらしいんで、中国の映画人はほとんど皆知ってましたね。一般ではまだ、そろそろ上映が許可されるんじゃないか、てな話程度らしいですけれども。ただDVDやビデオを日本から買って帰る人はずいぶんいるみたいで、観てる人も多かったですね。ま、2〜3日前、中国から帰ってきたとこなんですけど。 門間:でも模倣犯の話になりますと、結局日本ではなかったわけですよね?この映画の真似をして本当に爆弾をしかけちゃったという事件は…。 佐藤:ああそうですね。そういう意味ではね。 門間:それはやっぱり技術的に難しいから誰も真似できなかったっていう…? 佐藤:(笑)まあそうですね、やっぱり実際に現実的にこれをやろうとしたら相当大変だろうと思いますけどね。 門間:ということは、この映画を作ったスタッフは、実は爆弾が仕掛けられる技術を持っているわけですか(笑)? 佐藤:(笑)いや、火薬の知識もないし、それとだいたい映画人はそれほど綿密な計画性はないですから。 門間:それで結局、模倣犯はヤン・デ・ボンの「スピード」まで待たなければならなかった、ということなんですかね。・・・今日ご覧になった方は、出ている俳優たち、今も活躍なさってる方がたくさんいるんですけれども、30年近く前ですから、若いエネルギッシュな時代の姿を見たと思うんですね。今観ても、この日本映画の役者の層というのは、実はバカにできないぐらい厚いんじゃないか、という感想を持ったんですが。 佐藤:そうですね。先ほども言ったように、1960年代〜70年代初期まではヤクザ映画が非常に全盛で、ある意味日本映画はヤクザ映画的なものしか作れなかった。そういう意味では、俳優たちがみんな、ちょっと違った形の映画─現代劇というか、新しいものにチャレンジするという形での参加の仕方をしてくれてた気がしますね。 門間:それでこのキャストの多さになったわけですか。 佐藤:はい。だからそういう意味では、友情出演というか、無料で出てくれたり、いろんな人がずいぶん…北大路欣也なんかもそうですし。 門間:けっこうワンカットワンカットだけの出演の方がたくさんいて、ちょっと今観るとびっくりするんですけれども…。ただ最後、丸腰の健さんが撃たれて倒れた後に、いきなり大きな字で「特別出演 丹波哲郎」って出たときにはびっくりしましたけど。あのタイトルは大きくないか?健さん死んでるのに、最初から出せばいいのに、と思ったんですけれども(会場笑)。ま、でも皆キャストが濃いというか…僕は特に宇津井健さんと千葉(真一)さんが大好きなんです。宇津井さん、宇津井節全開というか(笑)。後の大映テレビと重なってくるんですが。千葉さんも、運転手が乗客よりパニクってるっていうのがとてもスバラシイというか、印象に残るんですね(笑)。
門間:では、質問に移りましょうか。この機会に監督にご質問がある方がいらっしゃいましたら、どうぞ。 質問者1:模倣の話でお伺いしたいのですが、この映画の前に「暴走列車」という黒澤明監督の、アイデアだけの映画がありましたが…? 佐藤:実は「暴走列車」は黒澤さんがやることになって、B班が実は僕がやることになっていたんです。ところがアメリカのプロデューサーと黒澤さんが対立して、結局流れちゃったんですけれども。だからあの「暴走列車」そのものの台本というのはたぶん僕が一番最初に日本で読んでたんだと思うんです。話は知っていました。 質問者1:健さんが主役を引きうけるまでの経過をお教えいただければ。 佐藤:はい、はい。実は、最初企画してるときには、高倉健じゃなかったんですよ。ご存知の方も多いし、知らない方もおるかも知れませんが、日本のヤクザ映画というのは実は2つに分類されまして、前半の前期はいわゆる「任侠映画」といわれる、大正末〜昭和初期の任侠の男達を描いた映画の時代があったんですよ。それが、そのような形(任侠映画)のヤクザと現実的なヤクザとの差が大きすぎるということで、…それと学生運動との関係で、よりヤクザの汚さ・醜さを描く形になってきた。それは「『仁義なき戦い』以降」といういいかたができると思うんですけど、いわゆる現実的なヤクザ・暴力団を描くという形になってきた。 で、高倉健はずっと任侠映画でがんばってきたわけですけど、それが現代劇のヤクザ映画(が主流)になって、高倉健自身が出たくなかったのか、会社側が拒否したのか、その辺のところは詳しく知りませんけれど…ちょうど肩で風切っていたのは菅原文太で、高倉健はそれまでの全盛期から、ある意味では疎外されたというか、映画の流れから外された。そういうときにたまたま高倉健が、どういうツテで入手したのかわかりませんけど、ホンを読んで、「ぜひこれをやりたい」と向こうから言ってきてくれたんですね。高倉健がああいう形のいわゆる悪役というか、ワルをやったのはこの1本だけだと思いますけど、あえてそれをやりたいという彼の姿勢に非常に僕も感動しまして、やってもらったというのが、実はひとつ、裏話としてあります。 質問者2:ラストが非常に印象的だったんですけれども、他のラストも考えられたのでしょうか? 佐藤:これはいろいろありましてね(笑)。例えばアメリカ映画の「明日に向かって撃て!」みたいに、つまり高倉健がまんまと成功して日本を脱出する、というラストもあったわけで、興行成績を考える営業部からだいぶそういう強いプレッシャーもありました。まあ実は、成功しようがしまいが、ある男の一人の生き方としては、僕の方からいうとどうでもよかったというか、より印象的なラストとしては今の方が良かったんじゃないかと思ってああいう終わり方にしましたけれど。ラストについてのいろんな意見というのはありました。 門間:では僕からもうひとつ質問なんですが…。爆弾を仕掛けた健さんが、爆弾が本物であることを証明するために、北海道のSLを爆破するんですが、なぜ北海道か?これはやっぱり、健さんだから北海道なのか、と思ったんですけれど(会場笑)。そのへんはどうなんでしょう? 佐藤:もうすでにあの当時、国鉄でSLが走っている線というのはほとんど無かったんですね。東京近郊にはまったく無かった。それで、大井町線、大井線ていうのかな?今まだ走ってますけれど、大井鉄道。それといろいろ探したら、秩父鉄道と夕張鉄道、これがほとんど廃線同様になってて使えるということで、そこだったら国鉄でなくて私鉄ですから、協力するということで、北海道まで行ったわけです。SLそのものは、たぶん「鉄道員(ぽっぽや)」ご覧になった方あると思うんですけど、非常に映画的・映像的には形がいいですね。新幹線と蒸気機関車っていうのは、ほんとに面白い取り合わせだと思いますけど。 門間:別に、健さんだからということじゃないんですね? 佐藤:ええ(笑)。
門間:他にまだご質問ある方いらっしゃいましたら。 質問者3:監督はいつも「カッコイイ映画」をお撮りになるんですけれど、その秘訣を。 佐藤:ちょっと難しい質問なんですけどね(笑)。僕が監督として映画と取り組む場合というのは、もちろんいろいろあるわけですけども…。─日本映画を映画史的にいいますと、「ヒーローのキャラクターの違い」である程度の年代に分類できるんですね。戦後直後というのは、それまでのある軍国主義のあれを全部裏返す、いわゆる独立プロ全盛時代の人たち(の映画)─反ファシズム、労働運動とか、左翼的な人たちが主人公だった。 それがやがて、アメリカから撮影を禁止されていた時代劇が許可になって、娯楽映画のヒーロー─東映の中村錦之介とか、東千代之介、片岡千恵蔵とか(が登場して)、時代劇の全盛が約10年ぐらい続くんです。 それがやがて、水戸黄門に典型的ですが、ある体制の中で、体制を背負ってワルを(倒す)─例えば旗本退屈男なら旗本を背負って、松平狂四郎は御落胤を─という風に、外から来たヒーローではなくて、(体制の中で)体制を正すというヒーローを作っていたんですね。 それからその次、体制の中にそのような庶民の味方をするヒーローなんてどこにもいないよ、という観客側のある思いがあったのか、そういうヒーローの形がなくなり、外から来る形になってきた。「シェ―ン」みたいに。これは日活のいわゆる「無国籍映画」とか。困った人たち、庶民を外から来たヒーローが助けて去っていくという、このパターンが約10年、まあ年数は別として、続くわけです。 やがて、「いくら待ってもそういう人が来てくれない」「白馬の騎士が助けに来てくれない」といった時に、映画の観客達が選んできたヒーローは、いわゆるサラリーマンの中でテキトウに生きようじゃないかと、いわゆる「日本無責任時代」的な、世の中にまっすぐに対峙して戦おうとしないで、テキトウに泳ごうという人たち。 で、それがさらに、「やっぱりそういう状況ではないぞ」というのが学生運動の盛り上がりと共にでてきて、ヤクザ映画の全盛が始まった。ヤクザ映画のアレというのは、つまり悪を武器で、力で叩き切る、その代わり自分も死ぬという、暴力肯定でありながら責任は自分で死ぬ形で取るという…そういう形でのヤクザ映画の全盛というのがあった。 そのあと、現実的にどういうヒーロー像を作るかというのが難しくなって、生まれてきたのがロマンポルノ。つまり、四畳半にこもっちゃおうと。「他の人は知らん」「社会は知らん」、と。そういう形で日活ロマンポルノの人たちが非常に共感を得た時代があった。 それからもう一度、やっぱりそれだけじゃ映画というのは大衆とコミュニケートしていく場合に(難しい)。次の新しいヒーロー像をどうするか?というのが、作る側としては非常に大きな問題だった。それは、自分自身がこれからどう生きるか、何を目指して生きるか、ということに重なってくるわけですけれどもね。そういう中で、高倉健的なああいう「新幹線大爆破」的なものとか、あるいは「ある体制の中で誰かに助けてもらう」「どこかから来る人を待ってる」「頼りになる兄貴分(に助けてもらう)」とか、そういうんじゃなくて「自分自身がヒーローになろうじゃないか!」という形で新しい主人公像を作ろう、という気持ちが何年かあったわけです。 で、実は日本映画の衰退というのは、ヒーロー像を見失ったというところから始まった、というのがあると思います。アメリカ映画の場合は非常に単純なヒーロー像で、今なお頑張っておられるというのは、うらやましいといえばうらやましいんですけど(笑)。 もうひとつ平行して問題になるのは、悪。ワルの形というのが非常に複雑になってきた。今、ワルを描くのが一番難しい。構造的に、ワルがもう本当に隠れちゃってる。まあ、鈴木宗男さんみたいにボロ出してくれればいいんですけどもね。まだまだボロを出さないワルがいっぱいいると思うんですけど…。ある対立の中でドラマを作るときに、「ヒーローvsアンチヒーロー」という構図を作るのがなかなか難しくなってきている。でもやっぱり難しいからといって、映画を作るのをやめるわけにはいかない。というより、そこをどう僕たち作る側が乗り越えて、新しい映画を皆さんに観てもらえるかということが、実は今一番、日本映画に課せられている試練だという気がします。 ひとつの方向としては、ある意味ノスタルジックな形で、「鉄道員(ぽっぽや)」とか、ああいう形で示されるように─これは観客の年齢層という問題があるわけですが、実は映画というのは若者達の文化だったわけですが、この4〜5年、一番映画を観た世代の人たちが定年になって、再び映画館に戻ってきてくれてるんですよね。で、その人たちが観る映画と、若者たちが観る映画というのが、今ほど分裂している時代というのはないと思いますね。まあ、それはそれとしまして、その中でカッコイイ映画をどうやって作るか、というのは、まあ大変難しいですね、なかなか…(笑)。ただ僕が映画を作るとき、僕が映画と向き合うときにはそういう形で映画と向き合って、つくっていこうとしている、ということでお答えする、ことで勘弁していただきたいと思います。
門間:…いや、今、戦後の日本映画の問題をきちんと簡潔にまとめていただいたので、あとでこれ、戴きます(笑)。まさにそうなんですね、この映画を観てもそうですね。高倉健が悪いわけじゃないですね。で、彼を追い詰めたものは「何か」っていうのは、非常に形に見えにくい「何か」なんですね。それは「革命の理想が挫折した」「工場がつぶれた」…それは何かがあるわけですね。仕組みというものがかなり複雑になってきてて…。で、この頃からの問題というのは、そういう意味では今も本当に変わってないですね。30年、日本というのは見えない力に抗(あらが)っているような感じがいたしますね。 ちょっと余談ですけれども、先ほど話で、ヒーローが外からやってくる時代があった、昭和60年代の。で、典型的な例として、日活のアクションを挙げてらっしゃったんですが、小林旭が演じた「渡り鳥」っていうのがありましたね。で、あれよく観ると毎回の設定が違うんですね。名前も違うんですが、必ず「次」がつくんですね、「滝伸次」とか。で、何かっていうと、あの世代の「次」っていうのは次男なんですね。次男というのは後継ぎでないんですよ。農家とか店継げないんで、こう、全国を廻っていく、だから渡り鳥になるっていう…。そういうメッセージも映画を観ていくと、たとえば名前ひとつにも意味があったりすることがあります。ま、これは余談ですけれども。ええと、時間オーバーしてますね。質問の方いらっしゃるかもしれませんが、大変残念ですが、この辺で締めさせていただきます。今日は、どうもありがとうございました。 佐藤:どうもありがとうございました。 (会場拍手) 司会:ホントにもっともっとお話を聞きたい。本当に貴重なお話をありがとうございました。 |