Part5(3月3日)

今回はカメラマン・松根広隆さんがお伝えします。

2001年3月3日(土)
待ちに待った峠越えである。中山随道の真上にそびえたつ中山峠は雪国らしく見渡すかぎり真っ白な雪で覆われている。メンバーは我々スタッフ4人と案内役として松崎六太郎氏(76才)、小川八一郎氏(82才)の2人である。 2人とも冬の中山峠越えは随道開通後、初めてだそうだ。実に52年ぶりである。スタッフでは橋本監督が夏の中山峠越えを経験していて、残りの3人のスタッフは今回が初めてだった。

今回の目的は雪の峠道、峠から見た小松倉の集落、吹雪の時などに体を休めた芋川薬師などの撮影が主ではあるが、それよりもまず中山随道を掘らざるを得なかった要因でもあるこの中山峠越えを体験してみたかったというのが強い動機としてあった。



いよいよ峠越え、我々はカメラ、三脚、カメラバッテリー、予備テープ、録音機などを各自リュックに背負い、八一郎さんは六太郎さんの昼食などが入ったリュック(すごく重い)を背負って出発した。

まず積雪3mの田んぼ道を雪をかき分け突き進む。道などはない。作っていくのである。 先頭が一番しんどい。やる気満々、元気な82才の八一郎さんが俺についてこいといわんばかりに先陣を行く。

山の斜面につきあたる。雪で覆われた山は斜面というより、高い壁という方が似合っている。一瞬、茫然となる。この峠道を一里(約4km)も歩くのかと思うと歩く前からもう疲れてくる。・・・とはいうもののこの峠を越えなければ何も始まらない。 映画でいうファーストシーンのようなものだ。意を決しての出発。 湿気を含んだ雪が重い。足がだるい。汗がしたたり落ちる。 撮影どころではない。何も考えられず、ただ足を一歩一歩踏み出すだけだ。 我々スタッフはただ黙々と歩いている。しかし、元気な案内人の二人の足取りは軽い。
「昔はこんなんじゃなかった。雪が6mも積もっておった」
「この峠をトロッコのレールを担いで向こうの町から持ってきた」
など当時の事を話してくれた。さすがである。恐るべし、小松倉の老人たち。

途中、何度か休憩を入れ、やっとのことで頂上の芋川薬師にたどり着いた。待ちに待った昼食である。山古志米の握り飯、自家製の漬物。うまかった、山古志の米はうまい、最高である。 そして、六太郎さんのリュックから出てきた缶ビール。重かったわけである。でもなんて粋なことをするのだろう。誰も考えもしなかったこういうちょっとした遊び心が小松倉の人々にはあるのだ。とても感激し、実にうまかった。


中山峠はとても静かであり、晴れていたので雪がキラキラと光り、景色としてはきれいだった。でも我々が撮りたいのはキレイな風景ではなく、峠の険しさであり、過酷さである。そして、なぜ中山随道を掘らなければならなかったを感じさせる映像である。 病人をソリに乗せての峠越え。そして、その病人が亡くなれば帰りは亡骸を乗せて帰って来ざるを得なかった・・・。その無念さ、悔しさなどの村人の思いを映像にしたいのである。撮れるまで何度も登ってこよう、そう思った。


芋川薬師からは下りなのでずいぶんと楽である。やっと隣町の水沢集落にたどり着くと皆、バタンキュー。へなへなと地面に倒れこんだ。 スタッフはもちろん、六太郎さん、八一郎さんもずいぶん疲れたようだ。 二人とも結構きつかったはずであるが、我々の無理難題に最後までつきあってくれた。この場を借りて改めて謝意を表したい。 いつのまにか日が傾きかけてきた。4時間の峠越えだった。正直疲れきった・・。

しかし、その後、我々が中山峠越えをした事が村に知れ渡り、会う人、会う人から 「よくやった」「たいしたもんだ」と言われ、少しは村の人々に認めてもらった気がする。そして、この事は映画を作る上で非常に大事なことであり、やっとスタートラ インに立てたと思った。 まあ、少しは中山峠越えをやった甲斐があったのだろう。


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