Part6(5月18〜20日)
今回は録音部・兼制作助手、山辺健史さんの日記をお届けします。 |
2001年5月18日(金) |
新潟山古志村を訪れるのは2回目だった。去年の春だったか、隧道に関わった方のインタビューを撮るため橋本監督と行ったのが最初である。その時印象に残ったのが、トンネル内に今も残るつるはしの跡と背丈ほどもある残雪、そして何かと言うと日本酒をすすめる村の方だった。酒好きの私にはたまらない土地である。新潟の美味しい米と水で作った特級モノのお酒が飲んだ先からコップに注がれる。しかもビールをしこたま飲んだ後で。うん。いいところだ。お酒の好きな所に悪い人はいない。軽薄な理由で村を好きになり、仕事で行ったのも忘れ、誘われるままに飲んでしまう。そして、赤い顔して外に出ると真っ白い山々と澄んだ空気が火照った体の熱をゆっくりと大気に散らせてくれた。東京に帰るのが少しいやになったのだった。 今回の5月18日から20日の撮影のテーマは、山古志の新緑と田植えがメインである。今回の撮影隊は計3名、監督の橋本さん、カメラマンの松根さん、そして、録音の私である。代わる代わる運転を交代しながら一路新潟へ。去年の9月に免許をとったばかりの私はいまだに初心者マークをつけたままの運転だ。橋本さんも松根さんも信じてくれて任せてくれるのか。東京では親の車をだいぶ乗っているとはいえ、車はバンだし高い機材を乗せてるし、大事なお二方を乗せているので緊張するしで手のひらにはびっしり汗が。追い越し車線を80キロで走ってたら助手席の松根さんがやさしく一言。「左の車線にいきな。そのスピードじゃ捕まっちゃうよ。」ひぇー。そ、そうですよね。高速のスピードに慣れてないもので。だ、だいしょぶか、俺! そんなこんなでお昼過ぎには新潟に着いた。昼食を食べようということで噂の「ごはんや」へ。橋本監督は「いいんだよ、ここ。」と得意げだ。お店の壁にかかっているメニューを見まわすと、や、安いっ。エビフライに刺身が付いて800円。ファーストインプレッションでそれを頼むことにした。量も多くてなんといってもご飯が美味しい。味が澄んでいるというか、ふんわりとほのかな甘さが口の中に広がって、ゆっくりとほぐれていく。東京で食べている白米はなんだったのだろうかという疑問まで出てくるほどの美味しさだった。「東京で食べたらこれ、1500円はしますよ。」と私。「そうだよな。」とふたりは笑ってる。そして、橋本さんが「すいません。ご飯お変わりお願いします。」と店の人に言う。ええっ、お変わり自由なのっ?あ〜あ、それを計算しておかずを残しておけば良かった。 昼飯が終わり金倉山に新緑を撮影しに行く。車で八号目まで行きそこから歩く。熱いくらいの良い天気で新潟だから寒いのではないかと厚着をしてきた私を頭上で太陽が大笑いしているようだった。緑が濃く、目を射ぬく。 監督が先頭に、そして、二番目がカメラを持った松根さん、そして最後尾に三脚を持った私がつく。そして、30度くらいの傾斜の山道を登って行く。普段東京では電車と自転車を交互に使う生活の私。体がなまっているのをまざまざと感じてしまった。実際に登ったのは10分くらいだと思うが、果てのない登山に思えた。情けない。10メートルくらい先を行く監督がぜいぜい言っている私を振り返る。だいじょぶです。大きな声でそう答えたその声がすでに途切れ途切れだった。自分の足元だけ見て歩く。曲がり角に来ると、曲がったらすぐ頂上なのではないのかと、甘えた根性が頭をもたげる。しかし、まだ着かない。汗が流れ落ちる。足が前に進まない。三脚を担ぐ肩が痛い。 山を汗だくで登りきると360度パノラマの景色が眼窩に広がっていた。汗を拭くのも忘れ、見入る。カメラが三脚に乗せられる。新潟ロケワンカット目がまわる。監督が撮りたかった新緑が風に揺らいでいる。悠久の昔から山古志の人と共にあった自然の風景で今回の撮影は幕を開けた。 |
2001年5月19日(土) |
2日目。田植えの撮影が始まった。隧道掘りに実際に関わった八一郎さんの田植えを撮る。八一郎さんの田んぼは本当に隧道のすぐ近くで150メートルくらいしか離れていない所だ。日はさんさんと照りつけ、この日の為に水量を調節してあるという水面には青空と雲が浮かんでいた。今日は暑くなりそうだ。 さっそく八一郎さんがじゃぶじゃぶと田んぼに入っていく。松根さんがカメラを担ぐ。私はミキサーを肩に掛けマイクを握る。冬に雪道を歩くために撮影隊でおそろいで買った長靴で松根さんもばしゃ、ばしゃと田んぼの泥水の中へ。そして、私も後に続く。しかし、そこでアクシデント。松根さんの二歩目が出ない。私の長靴も潜ったきり上へ引き上げることが出来ない。むしろ、太り気味の体重のせいでずぶずぶと沈んでいくではないか!田んぼの泥に足を取られてしまうのだ。「いやー、だめだな。」と松根さんが振り返る。これでは八一郎さんに近づくことも遠ざかることも出来ない。「ダメだよ。あんたら。田植えには田植えの長靴じゃないと。」よくよく見ると八一郎さんの長靴は足にぴったりフィットして引き抜く時も密着する、田植え用のものだ。そうだったのか。「じゃあ、裸足で行こう。」と松根さん。撮影隊は靴と靴下を脱ぎ捨て、裸足で田んぼの泥水の中へお邪魔させていただくことになった。苗を一本一本手植えする八一郎さんの手つきを撮る。顔を撮る。そこに流れる汗を撮る。こういう場合録音部はカメラが撮ろうとしている画を予測し、カメラの邪魔にならないように、より音が撮れる位置にマイクを出すことが要求される。次の画は次の画はと考えながら必死に松根さんに着いていく。そうして撮影が始まって10分も経つ頃には、じゃぼ、じゃぼという泥水の感触がかえって癖になりそうだった。しかし、なんだかさっきから足が痒い。何だろうと思ってチラッと見るとブヨが足の周りにたかっている。おおー。このムシのせいか!カユイ!猛烈にカユイ!これは1個や2個じゃないぞ。でも、カメラがまわっている時マイクは余分な音をさせない為に動いてはいけないのだ。私は生まれて始めて虫が足から血を抜いているという感覚をじっくり味わった。意識しなくてもなんとなく小さな小さな針が足に刺さるのがわかる。 足は痒いが、撮影は順調だ。途中、八一郎さんが田植え歌を歌い出した。かえるの鳴き声と、苗が植えられていく音、そして、朗々と響く歌声。いい瞬間だった。そこにある全ての光景と音と匂いと人と日差しがこの映画のこのシーンのためにあるようだった。ドキュメンタリーをやっていると時々こういう瞬間を味わえることがある。うーん、この米もきっとすごく美味しいんだろうな。 |
2001年5月20日(日) |
3日目。「中山隧道の記録」での重要人物の一人、六太郎さんの田植えを撮影させてもらいに伺った。少し離れた山あいのなかに六太郎さんの田んぼはある。今は主に田植えは息子さんの仕事になっているが今日は一緒に六太郎さんも田植えをするという。六太郎さんの田んぼは緑が目にまぶしい山の斜面のふもとにあり、山古志の特徴でもある棚田だった。監督に聞くと山の水をそれらの田んぼに引くために、その昔、六太郎さん達の先祖が掘ったという。そして、その経験が後に中山隧道を掘る時の基礎になったものであるそうだ。田植えの撮影の後その水路トンネルの前でいきさつを話してもらいそれを撮影することになった。六太郎さんが話し私はマイクを向ける。すると、六太郎さんの声の後ろの穴から静かにゆっくりと水の流れる音がする。山の中腹に掘られたその穴から絶えず水が流れ出している音だ。私は話を聞きながらずっとその音を聞いていた。山は生きているようだった。その山の水のいわれを話す六太郎さんの声と、山が生きているようなその音が私のマイクの中で一緒に流れている。不思議な経験だった。おおっと思い、思わず少しマイクのメモリを上げてしまった。その水はとても澄んでいて、きらきらと光っていた。 撮影から帰ると六太郎さんの家ではお昼ご飯が待っていた。用意ができる間、ドンと食卓の上にビールが。お、お昼なんですけど・・・。「まあまあまあ。」と飲んだ端からビールを注いでくれる。まだ、ロケは終わってないのに・・・。お酒の弱い松根さんの分もビールをしこたまいただくことに。「いただきます。」「いただきます。」何杯頂いたのか、もう、憶えてない。裏で詰んで来たという山菜と、美味しいお米。おかわりもした。そして、確信した。山古志はやっぱり良い。人も暖かく、お米も酒も美味しい。撮影も刺激の連続だ。能天気にそんなことをぼんやりと考える。今日でもうロケも終わりか。 う〜ん、もうちょっと、撮影項目増やしませんか、かんとく〜〜。 |