追悼 武重邦夫(アーカイブ)
1939年、愛知県生まれ。1965年、今村昌平監督に師事し、今村プロダクション結成に参加。 1975年、今村監督とともに横浜放送映画専門学院(現在の日本映画大学)を設立する。今村監督作品にプロデューサーや助監督として多数参加した。1988年に新宿映画祭、1995年にはKAWASAKIしんゆり映画祭を創設。監督、プロデューサーとして活躍する傍ら、若いスタッフの育成に力を注いだ。KAWASAKIしんゆり映画祭顧問、NPO法人KAWASAKIアーツ・副理事長、シネマネストJAPAN映画制作研究所・代表を務めた。2015年、逝去。
- 「しんゆり映画祭」の魅力と魔力(2014年、映画祭20周年時のフリーペーパーより)
- 白鳥あかねさん(前映画祭代表)(2015年9月18日「武重邦夫を送る会」にて)
- 武さんへの恋文・ラブレター/千葉茂樹 さん(映画祭代表)
- 市民ボランティアより追悼コメント
武重邦夫のことば
(2014年、映画祭20周年時のフリーペーパーより)
1995年4月、川崎市市民局文化室から「芸術と文化の街づくりイベント」の一環として映画祭を開きたい。是非、協力して欲しいと日本映画学校に依頼が在りました。1月に阪神淡路大震災が在り、3月の地下鉄サリン事件で日本中が揺れていた年のことです。
あの頃の新百合ケ丘には映画館も無く、大きい建物と云えば、麻生区役所と新百合21ホールと映画学校くらいでした。2年後、ビブレやOPAやエルミロードが出来て街は一変するのですが、当時は夜になるとタヌキの親子が出没する荒れ野原でした。映画館も無い町で映画祭を開催? 何が「芸術と文化の街づくり」 なんだ...深夜、人気のない駅の通路にポスターを貼りながらボヤいたのを覚えています。
10月27日13時。「第1回しんゆり映画祭」は淀川長治氏の基調講演で産声を上げました。会場は新百合21ホール。3日間で6作品上映と3講演のプログラムです。ゲストには淀川長治氏、新藤兼人氏、山田太一氏、今村昌平氏、市原悦子さんをお迎えしました。この田舎町に本物のアーチストを登場させたいと、私なりに考えての事でした。
やがて新百合ケ丘にも若いクリエイターや芸術家が育ち、彼らの多彩な活動により、魅力的な本当の文化の街が出現するだろう・・・。そんな願いを込めた企画でした。
映画祭は「まつり」だから、近隣住民が中心になって盛り上がるのが本筋です。
そう気づき、2年目からは市民映画祭に路線変更するべく市民ボランティアを募集しスタッフ養成講座を開設しました。第1期生は主婦やOL・デザイナー・学生の混成チームでしたが、故・野々川千恵子さんを筆頭に皆、自分たちの住む新百合の街を魅力的にしたいと願っている人たちでした。好奇心が強く、サービス精神が旺盛で、創意工夫を楽しむ人達の出現・・・この自由な市民精神との出会いこそが、市民主導型の新たな映画祭の誕生を実現したのです。
あれから20年。複雑多岐で手間のかかる「しんゆり映画祭」が、今なお生き続け成長しているのは驚きと言うしかありません。支えているのは無給のボランティアスタッフたちです。
彼らはほぼ一年中企画し、会議し動き回っている。会期が近付けば会社を休んだり睡眠時間を削ったりと苦労の連続です。
それでも皆で続けてきたのは、多分、「しんゆり映画祭」が名画を見せるだけではなく、見せるための創作作業だからだと思います。そう、人間にとってクリエイトの楽しさや歓びは何物にも代えがたいものです。長い人生の或る瞬間、ステージに上がり眩しいライムライトを浴びる快感・・・私には、「しんゆり映画祭」がそんな素敵な体験が出来る魔界に思えて仕方ありません。
しんゆり映画祭の仲間たちからのコメント
(2015年9月18日「武重邦夫を送る会」にて)
「武重邦夫を送る会」
日時 平成27年9月18日(金)午後6時~8時
場所 新百合ヶ丘トウェンティワンホール
自分が柿生に越してきた頃、新百合ケ丘に日本映画学校も越してきて、今村昌平さんに「ここは文化果つる所だ」と言ったら「バカヤロー! 文化は自分で作るんだ」と一喝されました。それで早速しんゆり映画祭に組み込まれまして、その時に先頭になって旗を振っていたのが武重さんでした。
武さんより年上の私が、なんとか去年までしんゆり映画祭の代表を務めておりました。武重さんは、いつも姉さんとして私を立てて下さったんですが、実は、いつも私が武重さんに頼っていました。“しっかり者の弟とダメな姉さん”という感じで、二人でしんゆり映画祭を盛り上げてきました。
ものすごく物を書く事が好きな人で、メールを自由自在にあやつって、映画祭の情報をわたしよりも詳しく知っており、何かにつけてしんゆり映画祭のボランティアメンバーを励まして下さっていたのは武重さんでした。映画祭をずっと陰ながら見守り続けてくださいました。
しんゆり映画祭は若い次の世代の人たちが後を継いで頑張ってくれています。武さんはきっとあちらでニコニコしながら見守ってくれていると思います。
(寄稿)
武重さん、映画学校の最盛期は、今村昌平の晩年10年と一致するね。その頃の武さんは大いに悩んでいたな。今村亡き後、自分はどうすべきか。相談役として、日本映画大学へ協力すべきか、だが武さんは映画づくりの道を選んでしまいましたね。1994年監督した文化映画『民と匠の伝説』が文部大臣賞に輝いたお陰かも知れない。
自主企画で「青春100物語」を企画書に纏め、デスカバリ–ジャパンを標榜して庶民列伝とも言える「ドキュメタリー作品」を毎年のように創り続けたね。やがて2000年には私自身が「豪日に架けるー愛の鉄道」を制作した結果、シドニーでの上映を映画学校の今村監督以下スタッフ、学生たち50人を引き連れて「サザンクロス日本映画祭2000」を2週間3都市で実現したのでしたね。
“伝さん、イマへいさんも一番楽しんでいるぜ。これまでの海外ロケと違って呑んで食べて歩けるのだからサ” 武さんが言う通りだった。今村監督、藤田伝、武重、それに女優の倍賞美津子たちは、作品上映の間は会場の表でタバコを吹かしているのだ。その事が、武さんの命を肺がんで奪ったのではないか。とても残念だよ。 「サザンクロス日本映画祭2000」を契機として、武さんの活躍は凄かった。「掘るまいか」「いのちの作法」「1000年の山古志」「だんらん・にっぽん」「父をめぐる旅」「日本の保健婦さん」そして「物置のピアノ」の企画まで、武さんは命を削るように製作や監督をやり遂げたね。 それらの全てが、KAWASAKIしんゆり映画祭で上映された事が、武さんの大いなる功績と成ったのだ。二度とこのようなチャンスは訪れない。武さん、本当にお疲れさまでした。
最初の出会いは、武重先生がまだ四十代のころ、私は横浜放送映画専門学院の武重クラスの学生となった。先生は若くて、今村昌平監督のスタッフでもあったのに、私たち若造に時間を割いてくれ、自分の監督作品が減っても、お前たちが作品だと言ってくれた。
卒業後は先生に会うことも仕事を一緒にすることもほとんどないまま、夫の仕事でアメリカに。再会は、アメリカから戻って挨拶に行ったとき。しんゆり映画祭が5年目に突入するころで、ジュニア映画制作ワークショップがスタートした年だった。映画祭に誘ってくださり、字幕や吹き替えに多少の経験がある私はバリアフリーやジュニアのお手伝いをした。映画制作現場のスタッフではなく字幕などの仕事をしている私は、映画界で活躍する同級生たちに劣等感を抱いていたけれど、先生はいつも私を過大評価してくれた。幸運なことに再会後は、先生プロデュース作品の字幕や映画祭などで頻繁に会うことができた。
先生は若いスタッフに負けず、いつも夢を語っていた。その夢に少しでも関わりたかった私。でも、また3年前から中国に。先生は私が英語や中国語に堪能だと勘違いされたまま遠いところへ行ってしまった。過大評価に応えられる日が来るのかな…。武重老師, 再見! (渡辺千鶴)
武重先生が「おう、そま、今度こういうことをやろうと思ってるんだけどよ、ちょっと手伝ってくれよ」と、映画学校の講師室でコーヒーを入れながら、さら~っと言った。
「はあ…まあいいですけど…」と返事を曖昧にしたつもりで呑気に日々を過ごしていたら、橋本信一さんから「杣ちゃんが手伝ってくれるって武重さんが言ってたんだけど……」と、大分事が進んだ案件が舞い込んできた。
ここで私が断れば、その案件は頓挫してしまう。やるしかない。
といった感じで、ジュニアワークショップの初期に音の仕上げをやりました。
武重先生が「ちょっと手伝ってくれよ」と言うことは、大抵息切れするほど大変なことでした。
でも、絶対におもしろいことでした。
「大変だけどなあ、おもしろいだろ?ひとつよろしく頼むよ」
今度は自分で、おもしろいこと、やります。
(バリアフリーシアター録音編集担当 杣澤佳枝)
15年前、映画祭のスタッフになって武重さんに会った。今村昌平監督のこと、映画のこと、映画祭がどうあるべきかなどなど、穏やかな黒メガネの「夢を語る男」がそこにはいた。夢を実行するには、実行部隊が必要なんだけどなーと、武重さんに近しい人はその夢の大きさに笑ったけど、ずっと前だけ向いて夢を追い続けたその姿は、大きな安心だった。
いつも締め切りを守って原稿を書いてくれた武重さん。メールにはすぐ返事をくれた武重さん。15年前に出会ったころから心臓に持病があり「俺はそのうち死ぬから」と笑いながら言っていた武重さん。
大切な人がたくさん逝ってしまったけど、武重さんはみんなを集めてまた夢を語っているんだろうな―と思え、どことなく暖かい気持ちで送れたことに、武重さんの人柄だなーと心から感謝しています。(パンフレット&フリーペーパー編集担当・中村礼子)
あんまり連絡もしないし
顔も見せなかったのに
いつもどこかで見守ってくれていた武重さん
深夜のデニーズで
制作中の映画の話を嬉しそうに語る武重さん
食事や落語に誘ってくれて
いろんな刺激をもらったこと
なにより
結婚相手となった彼と付き合い始めた頃
「あいつなら大丈夫だ」
と言ってもらえたこと
嬉しかったです
mikiko
第20回映画祭(2014)にて、市民ボランティアスタッフと
1998年夏。映画祭のボランティアに集ったばかりの私たちに、実行委員長の武重さんは、最初から色んなことを任せてくれた。ゲストトークの司会は、専門家じゃなくて君たちボランティアがやればいいんだよとか、この留学生を使って映画祭の記録撮影すればいいんじゃない?とか。思いつきを丸投げされて、みんな戸惑いながら全力で応えていくうちに、いつの間にか映画祭にどっぷり浸かってしまっていた。巨匠・今村監督へのインタビューを、撮影したことがない上に、今村作品を1本も見たことがない私たちのためにセットしてくれたのは、今、思い出しても冷や汗が出る。でもどんなに失敗しても怒らない。いつも笑顔で、背中を軽く叩いてくれた武重さんの大きな手が懐かしい。
ずっと何年も経ってから、武重さんが「映画祭なんてものに集まってくる人たちは、みんな何か欠けてて、うまくいってなくて、なんとかしたいと思ってるような人達なんだよ」と言った。本当にその通りだった。誰もが満たされない思いを抱え、誰かとのつながりを求めてもがいている。そういうボランティアスタッフの思いを受け止めて、全部包み込んで、いつの間にか思いがけないほどの力を出させてくれ、そして最後に、まるで自分達で全部できたんだよと言わんばかりに褒めてくれた武重さん。かけがえのない人を失って本当に淋しい。(由田 志穂)